■関ヶ原決戦前夜の大垣城
わたし気になります!ここは岐阜ですので京都アニメーションの岐阜を舞台とした作品に影響されこうつぶやくべきでしょう。
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大垣城、その歴史は特に関ヶ原の戦いにおいて、わたしの大きな関心を掻き立てるのです。事実関係を見てゆきますと、大垣城は関ヶ原決戦の前日までは西軍の拠点となっていました、それは東軍により岐阜城や犬山城の攻略が進む中においても不変となっていた。
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関ヶ原の戦い、その謎は何故防御陣地の要といえる城郭を西軍が捨てたのか。少なくとも大兵力を収容する策源地であり、しかも防御の指揮はあの石田三成が執っていた訳ですから兵站拠点でもあり得たのでしょう。それを何故、関ヶ原まで陣地変換したのかという。
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城郭は、頼りなかったのかと思い調べてみますと、福原長堯が殿として防御を固めていました、この人は石田三成の妹婿となっていまして豊臣秀吉に小姓頭衆として仕えていらい北野大茶湯では奉行を務める等、実績を積んできた人物です。実戦経験も相応にはある。
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慶長の役、しかし福原長堯は朝鮮の役にて、700が30000を相手に戦った蔚山城の戦い、その後の反撃に際し、蜂須賀家政と黒田長政と毛利高政に早川長政と竹中重隆、錚々たる武将を軍令違反として秀吉に告発したという、文治派と武断派の決裂、その原因の人です。
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殿に配置された背景は不明です、が、福原長堯は天正15年こと西暦1587年4月の島津攻めにて根白坂の戦いで戦っており、要するに石田三成の妹婿ではあるけれども、距離を置きたい武将が多いという人物だったのでしょうか、何かレイテ沖海戦の戦艦大和のようだ。
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レイテ沖海戦の戦艦大和では、レイテ攻略部隊主力の旗艦愛宕が潜水艦に撃沈され、指揮官の栗田中将が戦艦大和に移乗、しかし元々大和艦上には元々決戦態勢への意見の相違がある宇垣中将が乗艦しており研究はいろいろあるのですが、レイテ反転一因になったとも。
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関ヶ原の戦いに視点を戻しますと、指揮官は決戦態勢を決心したならば安易に方針を変えてはなりません、柔軟にと反論されそうですがそれは決心の段階までであり、方針の変更は兵が動揺します。すると、石田三成の陣地変換は何時決心したのか、研究の余地はある。
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大垣城は防御拠点とするのにそれ程頼りない城郭であったのか、こう思われますと、小さな城郭と云われる割には大きい、実際に郭町という今の地名に沿って、氏家直元が拡張した城郭を散策しますと、今と比較にならない大きさである事が分り、尚の事陣地変換の理由が分らない。
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徳川家康は大垣城を水攻めにする方針を伝えていた、堀直寄宛徳川家康書状という資料があるようですが、そもそも南宮山はじめ当時の大垣城は一体の要塞化、総構えの構造に近いものですので、水攻めなどを行えば逆襲部隊に滅多打ちされ、簡単に解囲されてしまう。
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氏家直元の城郭は、実際堅固でした、こういうのも石田三成の大垣城からの陣地変換とともに福原長堯の殿軍には守備兵力7500名、福原長堯に熊谷直盛と垣見一直と秋月種長とが守備に当りました、9月14日の陣地変換翌日、9月15日に関ヶ原の戦いははじまりました。
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合戦は一日で、といわれる関ヶ原の戦いです。短すぎるとも言われますが、分らないのは長期化した場合の大垣城を捨てた西軍主力の兵站で、長期化すると兵糧はどの程度持続したのか、大垣城から持ち出せたのかという。そして、大垣城は実際、難攻不落だったのだ。
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松平康長が軍使として降伏を勧告し福原長堯が大垣城開城を認めたのは9月23日、関ヶ原の戦いから一週間以上、死守し続けていました。それだけに、なぜ石田三成は大垣城を捨てたのか、指揮官として優柔不断過ぎたのではないかと、歴史を見てしまうのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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わたし気になります!ここは岐阜ですので京都アニメーションの岐阜を舞台とした作品に影響されこうつぶやくべきでしょう。
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大垣城、その歴史は特に関ヶ原の戦いにおいて、わたしの大きな関心を掻き立てるのです。事実関係を見てゆきますと、大垣城は関ヶ原決戦の前日までは西軍の拠点となっていました、それは東軍により岐阜城や犬山城の攻略が進む中においても不変となっていた。
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関ヶ原の戦い、その謎は何故防御陣地の要といえる城郭を西軍が捨てたのか。少なくとも大兵力を収容する策源地であり、しかも防御の指揮はあの石田三成が執っていた訳ですから兵站拠点でもあり得たのでしょう。それを何故、関ヶ原まで陣地変換したのかという。
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城郭は、頼りなかったのかと思い調べてみますと、福原長堯が殿として防御を固めていました、この人は石田三成の妹婿となっていまして豊臣秀吉に小姓頭衆として仕えていらい北野大茶湯では奉行を務める等、実績を積んできた人物です。実戦経験も相応にはある。
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殿に配置された背景は不明です、が、福原長堯は天正15年こと西暦1587年4月の島津攻めにて根白坂の戦いで戦っており、要するに石田三成の妹婿ではあるけれども、距離を置きたい武将が多いという人物だったのでしょうか、何かレイテ沖海戦の戦艦大和のようだ。
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レイテ沖海戦の戦艦大和では、レイテ攻略部隊主力の旗艦愛宕が潜水艦に撃沈され、指揮官の栗田中将が戦艦大和に移乗、しかし元々大和艦上には元々決戦態勢への意見の相違がある宇垣中将が乗艦しており研究はいろいろあるのですが、レイテ反転一因になったとも。
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関ヶ原の戦いに視点を戻しますと、指揮官は決戦態勢を決心したならば安易に方針を変えてはなりません、柔軟にと反論されそうですがそれは決心の段階までであり、方針の変更は兵が動揺します。すると、石田三成の陣地変換は何時決心したのか、研究の余地はある。
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大垣城は防御拠点とするのにそれ程頼りない城郭であったのか、こう思われますと、小さな城郭と云われる割には大きい、実際に郭町という今の地名に沿って、氏家直元が拡張した城郭を散策しますと、今と比較にならない大きさである事が分り、尚の事陣地変換の理由が分らない。
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徳川家康は大垣城を水攻めにする方針を伝えていた、堀直寄宛徳川家康書状という資料があるようですが、そもそも南宮山はじめ当時の大垣城は一体の要塞化、総構えの構造に近いものですので、水攻めなどを行えば逆襲部隊に滅多打ちされ、簡単に解囲されてしまう。
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氏家直元の城郭は、実際堅固でした、こういうのも石田三成の大垣城からの陣地変換とともに福原長堯の殿軍には守備兵力7500名、福原長堯に熊谷直盛と垣見一直と秋月種長とが守備に当りました、9月14日の陣地変換翌日、9月15日に関ヶ原の戦いははじまりました。
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合戦は一日で、といわれる関ヶ原の戦いです。短すぎるとも言われますが、分らないのは長期化した場合の大垣城を捨てた西軍主力の兵站で、長期化すると兵糧はどの程度持続したのか、大垣城から持ち出せたのかという。そして、大垣城は実際、難攻不落だったのだ。
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松平康長が軍使として降伏を勧告し福原長堯が大垣城開城を認めたのは9月23日、関ヶ原の戦いから一週間以上、死守し続けていました。それだけに、なぜ石田三成は大垣城を捨てたのか、指揮官として優柔不断過ぎたのではないかと、歴史を見てしまうのですね。
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