■平安朝の情景を伝える
山河の情景というものはなかなかに長い時代を受け継ぐ故に借景と共にみる寺院の風景はどの季節も新鮮と思うのですが、新緑の季節は更に鮮やかだ。
大覚寺、その歴史と共に寺院がほかの京都数多ある寺院との違いを感じますのは、この大沢池を、文字通り池泉回遊式庭園、というだけではなく文字通り池の周りを散策して、遠くに多宝塔や堂宇の姿と高雄や愛宕の峰々を借景として眺めた際の壮大さにあると思う。
大沢池は、確かに京都の寺院には天龍寺や龍安寺に平等院と大きな池を巡らせるところはおおいのだし、いや平安様式にしても禅宗にしても池泉はその庭園に配置しているのはある種常識的な様式となっています、けれどもここの大沢池ほど大きくはありません。
洞庭湖という唐の風景画にあります湖を嵯峨天皇が嵯峨離宮造営にあたって再現したため、という。そして興味深いのは人工池としては日本で現存する最古のものがこの大沢池といいます。実際、高雄山に近い当地は傾斜地であり、築堤により人工池を造成した。
心経宝塔、多宝塔はこう呼ばれまして実は1967年造営と新しい多宝塔ではあるのですけれども、大沢池の遠い立地から見透かすように桜並木の狭間から眺めますと、なにかこう平安朝という優雅な印象に錯覚する、そしてこの大沢池は一周が1㎞にも達するという。
名古曽滝跡という、この大沢池に流れ込む小さな流れの上流には現存しない人工の滝跡がありまして、その様子は今昔物語集にも描かれている非常に古いものとなっている。ここは冬の季節ではなく春の季節に散策すると生き生きとした緑の絨毯が印象的に面映ゆい。
華道嵯峨御流、ちょうどこの大覚寺を拝観した際にはいけばな展の準備が行われているところでしたけれども、大沢池のまわりには嵯峨離宮造営の頃から季節の花々が咲く立地であり、そしてこの大沢池にいくつかある人工島では嵯峨上皇が菊を栽培したという。
菊島、という大沢池の島で手植えられた菊の花を離宮内で鑑賞するために、いけばな、という今では日本文化の代名詞の一つとなっている花木の鑑賞方法は、実はこの大覚寺で上皇さんの手植え菊を邸内で眺めるための作法であった、ということをここで知りました。
天神島、庭湖石、菊の島、ここ大沢池には大きな三つの島が並ぶとともに、前述の借景とともにここでしか見ることのできない水上の有限ともいえる情景がみられるといい、大覚寺には巨大な観月台も、これが寺院なのか離宮なのか、というほどの優美さを湛えます。
応仁の乱、壮大な伽藍は院政と南北朝という日本の政治における幾つかの分水嶺の舞台となった故の壮大さではあるとしましたが、しかしこの大覚寺もやはりといいますか毎度のように、応仁の乱の戦果により灰燼に帰しています、その中で大沢池は残りましたが。
灌漑用池、歴史に埋もれることなく優美な平安朝の頃の池泉が現存します背景には実はここは周辺田畑の灌漑用水としての位置づけもあり、もちろん雅な宮廷文化の継承というものもあるにはあったのでしょうが、実利的な要素もあり大切に保存されてきました。
五大堂という大覚寺の本堂は天明年間という18世紀末に造営、安井堂という後水尾天皇を祀る堂宇は明治時代に東山の安井門跡蓮華光院より移築、御影堂は大正天皇即位の礼に用いられた建物の移築、と実は大覚寺の伽藍は全般的に新しいものであったりもします。
愛宕や高雄を望む大沢池は、こうした歴史に翻弄され一時は大きく荒廃した寺院にあっても、いわば基礎となる風景、人工的な池泉であっても、こうした風土さえ残るならば復興するという気概にて、往年の美を再興できるのだと今に伝えるようにも思えるのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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山河の情景というものはなかなかに長い時代を受け継ぐ故に借景と共にみる寺院の風景はどの季節も新鮮と思うのですが、新緑の季節は更に鮮やかだ。
大覚寺、その歴史と共に寺院がほかの京都数多ある寺院との違いを感じますのは、この大沢池を、文字通り池泉回遊式庭園、というだけではなく文字通り池の周りを散策して、遠くに多宝塔や堂宇の姿と高雄や愛宕の峰々を借景として眺めた際の壮大さにあると思う。
大沢池は、確かに京都の寺院には天龍寺や龍安寺に平等院と大きな池を巡らせるところはおおいのだし、いや平安様式にしても禅宗にしても池泉はその庭園に配置しているのはある種常識的な様式となっています、けれどもここの大沢池ほど大きくはありません。
洞庭湖という唐の風景画にあります湖を嵯峨天皇が嵯峨離宮造営にあたって再現したため、という。そして興味深いのは人工池としては日本で現存する最古のものがこの大沢池といいます。実際、高雄山に近い当地は傾斜地であり、築堤により人工池を造成した。
心経宝塔、多宝塔はこう呼ばれまして実は1967年造営と新しい多宝塔ではあるのですけれども、大沢池の遠い立地から見透かすように桜並木の狭間から眺めますと、なにかこう平安朝という優雅な印象に錯覚する、そしてこの大沢池は一周が1㎞にも達するという。
名古曽滝跡という、この大沢池に流れ込む小さな流れの上流には現存しない人工の滝跡がありまして、その様子は今昔物語集にも描かれている非常に古いものとなっている。ここは冬の季節ではなく春の季節に散策すると生き生きとした緑の絨毯が印象的に面映ゆい。
華道嵯峨御流、ちょうどこの大覚寺を拝観した際にはいけばな展の準備が行われているところでしたけれども、大沢池のまわりには嵯峨離宮造営の頃から季節の花々が咲く立地であり、そしてこの大沢池にいくつかある人工島では嵯峨上皇が菊を栽培したという。
菊島、という大沢池の島で手植えられた菊の花を離宮内で鑑賞するために、いけばな、という今では日本文化の代名詞の一つとなっている花木の鑑賞方法は、実はこの大覚寺で上皇さんの手植え菊を邸内で眺めるための作法であった、ということをここで知りました。
天神島、庭湖石、菊の島、ここ大沢池には大きな三つの島が並ぶとともに、前述の借景とともにここでしか見ることのできない水上の有限ともいえる情景がみられるといい、大覚寺には巨大な観月台も、これが寺院なのか離宮なのか、というほどの優美さを湛えます。
応仁の乱、壮大な伽藍は院政と南北朝という日本の政治における幾つかの分水嶺の舞台となった故の壮大さではあるとしましたが、しかしこの大覚寺もやはりといいますか毎度のように、応仁の乱の戦果により灰燼に帰しています、その中で大沢池は残りましたが。
灌漑用池、歴史に埋もれることなく優美な平安朝の頃の池泉が現存します背景には実はここは周辺田畑の灌漑用水としての位置づけもあり、もちろん雅な宮廷文化の継承というものもあるにはあったのでしょうが、実利的な要素もあり大切に保存されてきました。
五大堂という大覚寺の本堂は天明年間という18世紀末に造営、安井堂という後水尾天皇を祀る堂宇は明治時代に東山の安井門跡蓮華光院より移築、御影堂は大正天皇即位の礼に用いられた建物の移築、と実は大覚寺の伽藍は全般的に新しいものであったりもします。
愛宕や高雄を望む大沢池は、こうした歴史に翻弄され一時は大きく荒廃した寺院にあっても、いわば基礎となる風景、人工的な池泉であっても、こうした風土さえ残るならば復興するという気概にて、往年の美を再興できるのだと今に伝えるようにも思えるのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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