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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

旅と真善美!(旅と真善美① 1/10)

2013-08-28 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 処暑になり、何となく天候も安定し秋の気配が漂い始めている。そして、昨日もそうだったが、今日も早朝目覚めると、澄み切った空に誘われるように散歩に出かけ、富士山や野草、野鳥などを撮ったりしつつ至福の時間を過ごした。

 ちょっとした、ミニ(マイクロかも)旅行ができて何とも幸せ。

 さて、美しい自然に出会ったとき、感動するのは何だろうか?その理由は、いろいろ哲学者が語っていることであるが、U先生から教えていただいた神学というか魂論が私は好きだ。美しい自然が、自分の魂(肉体が滅んでも残る知的生命体。宗教の領域)に触れて小躍りした。そんな解釈である。

 信仰を持つと、真善美がよりわかるという理論があるようだ。私はカトリック信徒であるが、何となくそんな気がする。どの程度信仰を持っていたか、良く判らない大学生のころの私だったが、当時は数学が好きでよく勉強した。統計の理論、解析学、複素数・・・深く勉強していくと、ああ、なんて美しいとうっとりした経験もある。特に、卒論で統計理論をいろいろ研究したときは、うっとりしたものだ。

 私が、カトリックの信仰を固めたのは、40歳台の後半であったが、それは、あることがきっかけだった(理論を深く勉強したわけでない)。そして、それからは、信じてしまって見える世界が変わったのか、例えば音楽の好みがかなり変わった。好きなもの嫌いなものがかなりはっきり意識化できた。これは、倫理道徳といった理性の問題というより、感情の明確な変化だった。

 このあたりの、信じて見える世界、見えなくなる世界を研究する分野が心理学ではあり、日本では余り論じられていないが、世界的には一つの分野として確立されているようだ。

 旅を考える時、最近考えるのだが、真善美の問題を外せないのではないだろうか。日本人の旅で有名な芭蕉も西行も、困難をものともせず旅に出て、真善美を追及した。もっと大きな視点で考えても、現世人類がアフリカを離れ、世界にあまねく散ったのも、ただ食べるためだけでなく、何らかの信仰と真善美の世界があったのではないだろうか。ツンドラの世界の美しい花に誘われ、極寒の世界に到達したり、いろいろあったのではなかろうか。

 旅と真善美① 1/10

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