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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

真実にも二つのアプローチ!(時間と空間の旅 ⑦ 9/10)

2014-04-11 | 第三章「無意識の世界」

 この10年くらいを振り返ってみると、大きな変化に驚く。電車に乗っているひとも、一昔前は雑誌を読んだり本を読んだりする人が多かったのに、今はスマホが主流。情報社会の波は物凄い。情報も、私の幼いころは、情報の娯楽と言えば映画館だった。長い行列で鞍馬天狗を観たりしても、かつては消防法などあったのか?立ち見が当たり前だったし、結構高い入場料も払っていたと思う。それが、今は、そういう昔の映画は、レンタルで80円とかで気楽にみられる。情報が安価になり普及している証拠なのだろう。

 情報もそうだが、遺伝子研究や医療、そうした科学の進歩も凄く、それに影響された考古学等のリニューアルもある。心理学や哲学、宗教の世界も信じられないほどダイナミックに変わっていくだろう。

 さて、最近理化学研究所の某問題がマスコミを湧かせている。私も、理化学研究所は親しみを感じていて、関心は高く、テレビの同じような報道も飽きず観てしまう。

 その中で思うのだが、科学的な真実と、現象学的な真実の違いがこれほど浮彫にされた話はないということだ。

 私にとっての科学的真実。学生時代はまだ、電卓も普及していない時代だった、そんな中、長~時間、実験レポートを苦労して書いた記憶がある。レポートはかなり厳しくチェックされて突き返されたりした。あるとき、8ケタくらいの掛け算が並び、それを思わず計算尺でアナログ的に出して提出したことがあった。ところが、突き返された。その時、なぜ、突き返されたのか、のこのこ訊きにいったのだが、そこには高級なソニーの電卓が鎮座しており、ほら・・・違うだろと言われ納得した。手堅い科学的真実、私は好きだ。しかし手堅さゆえに、この世の多くの現象の、ごく一部しか説明しきれないということがあるのも知っている。

 私にとっての現象学的な真実。中学生の時、弁当のゴミを誰かが床に捨てたということで、それが私だという密告者?がいた。そして、授業中に私は担任の先生から呼び出され、厳しく詰問された。その時、私は無実だと心から思い、涙を流してうったえた。その涙に先生は真実を観たのかゆるしてもらった。今、考えると私の可能性は10%くらとかあったかもしれない(都合の悪いことを忘れがちなので(笑))。しかし、私の現象学的な真実は100%、やっていないであった。この立場は、今勉強している、生き甲斐の心理学では、とても大切にされている。そして、想うのだが、あの時担任のT先生が私の話を信じてくれたのは大きかったのではないかと。もし、あのまま信じてくれなかったら、私は別の人生を歩んでいたかもしれない。

 こうした、科学的真実と現象学的真実が交錯する世界。両方の真実に繋がる神様はどう思われているのだろうか?

時間と空間の旅 ⑦ 9/10

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