「ドイツ語圏とその文化」というメール発行のサーキュラーを不定期に出している。
何号まで出したか覚えていない。多分4号まで出したと思うのだが。
それもいつ出したのか忘れている。もういい加減にしたらという自分の声も聞こえてくる。ところが不思議なもので、しばらくご無沙汰にしているとなんとかつづきを出したくなってくる。
今回思いついたことはドイツ語 技能検定試験の受験の経験について書くことである。すでにこのブログでも解答の一部を検討したが、それを再録してもいいのではないかと思い出した。
それに先号を発行した後で作家のギュンター・グラースが亡くなった。私は文学には暗いけれどもいつだったかテレビで見た「ブリキの太鼓」は深い印象を残した。
そういうテーマがいくつかできたので新しい号を準備してもいいのではないかと思っている。
それと最近のドイツ語の学習者の推移が気にかかる。少なくとも大学でのドイツ語の先生の数は激減している。
そのことがいいことななのかといえば、もちろんあまりいいことではない。もちろん、外国語はドイツ語だけではないし、タガログ語だってハングルだって、はたまた、中国語だって大切なのはまちがいがない。
外国語は英語だけでいいと思っているわけではなかろうが、どうもそうかと思われる風潮には断固として反対である。
何号まで出したか覚えていない。多分4号まで出したと思うのだが。
それもいつ出したのか忘れている。もういい加減にしたらという自分の声も聞こえてくる。ところが不思議なもので、しばらくご無沙汰にしているとなんとかつづきを出したくなってくる。
今回思いついたことはドイツ語 技能検定試験の受験の経験について書くことである。すでにこのブログでも解答の一部を検討したが、それを再録してもいいのではないかと思い出した。
それに先号を発行した後で作家のギュンター・グラースが亡くなった。私は文学には暗いけれどもいつだったかテレビで見た「ブリキの太鼓」は深い印象を残した。
そういうテーマがいくつかできたので新しい号を準備してもいいのではないかと思っている。
それと最近のドイツ語の学習者の推移が気にかかる。少なくとも大学でのドイツ語の先生の数は激減している。
そのことがいいことななのかといえば、もちろんあまりいいことではない。もちろん、外国語はドイツ語だけではないし、タガログ語だってハングルだって、はたまた、中国語だって大切なのはまちがいがない。
外国語は英語だけでいいと思っているわけではなかろうが、どうもそうかと思われる風潮には断固として反対である。