物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

小説は何を意味するか

2015-07-18 21:30:28 | 日記
昨晩(2015.7.17)、NHKのEテレで「文学白熱教室」というKazuo Ishsiguroさんの話があった。

Ishiguroさんは日系のイギリス人の有名な作家である。なんでもイギリスで権威のあるブッカ―賞を受賞された方だという。

Kazuo Ishiguroの名は鶴見さんのエッセイから知っていたとは思うが、どんな人かは知らなかった。

その方が日本に来られての講演である。

Ishiguroさんはいう。小説のテーマは数行の短い文章で要約できるものでなければならない。

それと小説は大きな隠諭でなければならない。Ishiguroさんの主張はこの二つに尽きると言っても過言ではない。

直接的な比喩ではなくもっと大きな意味での隠諭だというのである。そしてそれは事実ではないかもしれないが、真実であるべきだという。

真実と事実とはどう違うのかよくはわからないが、事実をfactと訳するとすれば、真実はtruthであろうか。

なんらかの普遍的な真実をそこに小説は含むべきだという。それは個々の事実とはちがうかもしれないが、やはり世間または社会のなんらかの真実を反映しているはずだし、また反映していなくてはならない。それが小説の意義だという。

時代、国、背景、おかれた状況等はいろいろおれぞれの小説において異なるが、それでもそれらに通底するものがある種の真実を示すという。それでなければ、事実とは異なるフィクションである、小説を書く意味がない。

Kazuo Ishiguroさんの覚悟のほどがここに表れている。彼は現在60歳だというから私よりも15,6歳下の人である。長崎生まれで5歳まで日本にいたが、父親の仕事の関係でイギリスにわたった。父親は5年後には日本に帰国するつもりであったらしいが、結局帰国しないでイギリス滞在を続けたためにイギリス人となったらしい。

その理由ははっきりとは語られなかったが、父親は生物か医学の研究者であったような気がした。

Ishiguroさんは5歳までの日本の記憶を自分の中に留めておきたいという願望から自分の頭に残る日本の小説を2つ書いて成功を収めたが、それはしかし特殊な日本における話としてイギリスやアメリカでは取られた。しかし、自分の小説はそうではないと思うようになり、舞台や時代背景をイギリスに移した英国のある貴族の館に勤務する執事の小説を書いたという。

要するに小説の主題は別におかれた場所が日本である必要はなくヨーロッパでもはたまた中東でもどこにあってもよい。表現形式もSFでもよいし、ラブロマンスでもまたはコメディでもよいという。そういう設定した場所を自由に選べるということに気づいたためにIshiguroさんはどこに場所を置くかとか表現形式はとかの設定を考える自由度ができ過ぎてそれを考えるのに多くの時間を使っている。

ある一人の作家の話ではあるが、こういう打ち明け話は聞いたことがなかったので、とても興味深かった。

ここに書いたことは文章の言葉こそ私が勝手に選んで書いてあるが、内容やその意図または言わんとするところはIshiguroさんの考えの一端を示すものであると思っている。

安倍政権の誤り

2015-07-18 11:11:11 | 日記
安倍政権には4つの大きな誤りがある。

列挙しておこう。

1.安保法案と集団的自衛権の是認
2.巨額の新国立競技場の建設
3.辺野古基地建設
4.原発再稼働

これらはどれも重大なものであるが、どれも政権としては推進していた。ところが安倍首相の一番自分の信念からは遠いところのものが2の巨額の新国立競技場の建設であった。

それであまりにも政権支持率が下がりそうなので、人気回復のために2を白紙撤回するということになった。

しかし、本当はこの4つの項目はどれも重大な影響を持つものであり、どれも日本の将来を誤らせる大きな原因になろう。

ちょっと経済政策がよくても安倍政権はどうも度し難いと思っていはいたが、それでも世間の眼をごまかすことができて、2度目の政権を担った。だが、どうもとんでもないことになった。

安倍政権の比較的良かったところはリフレ派の経済学者たちの進言を取入れた政策を採用したことであるが、それも実は巨額の国家債務という大きな問題を抱えての一時しのぎにしか過ぎない。

もっともそのことを一時しのぎにしかすぎなくてもそうぜざるを得ない状況に日本がおかれていることも実情であろう。さてこれからどうするのか。大きな構想を持った政治ができるのかどうか。

これは少なくとも経済学者の問題であろう。

南部さんの死去

2015-07-18 10:48:10 | 日記
7月5日に物理学者の南部陽一郎さんが亡くなっていたことが昨日報道された。

偉大な物理学者だということは聞き及んでいるが、私にはまだその偉大さはよくはわからない。もっとも南部さんの提唱された「自発的対称性の破れ」については短い論文を友人たちと出版したことがある。それはもっとも本質的な議論ではまったくなかったが。

一年のうち何ヶ月かを大阪大学で研究されていたので、大阪大学で大学の定年後も研究を続けている友人から南部さんのことをちらっと聞いたことがある。

南部さんの頭脳は働きは晩年にも衰えなかったと聞いているが、しかし肉体的には足取りとかが危うそうなことがあったとこの友人は語っていた。これはしかたがあるまい。

友人は私よりの数歳下なので、70歳をちょっと越したぐらいだが、彼でもときどきは急病で入院を余儀なくされたりとかするらしい。年は争えない。

しかし、それほど偉大な物理学者の南部さんではあるが、ノーベル賞の受賞は89歳の時と遅かった。これは彼の研究が深くていつも何十年もしないと一般の物理学者に理解できなかったためとも言われている。

1940年代後半には東大出身の優秀な物理学者が輩出し、それらのその当時の若者は東京大学には職がなかったために大阪大学、大阪市立大学等に勤めるようになった。南部、早川、木庭、山口、西島さんたちである。

その関西の大学への東大からの流出の先頭を切ったのが南部さんだったとか聞く。ご冥福をお祈りする。





じじいだからと言って

2015-07-18 10:25:37 | 日記
元自民党の国会議員だった方が数人集まって「じじいだからと言ってもう黙っておくわけにはいかん」というので安保法案に反対する記者会見を数日前にした。

年をとってもなかなかの気概であり、多くの人が頼もしく思ったものだ。というのはもう自民党の国会議員もごく少数を除いて安保法制に表向き反対する人はいない。こういうことではもう自民党など信用できないと私など思っている。

それだのに自分が昔所属していた、自民党の安保法案に危惧の念を表明した勇気ある行動だった。

これらの方々の勇気を称賛すると同時にここではちょっと別のことにも注意をしてみたい。

それは男性の老人が自分のたちのこと「じじいだからと言って」というのはまあ許されるが、老年の女性が自分たちのことを「ばばあだからと言って」とは言えないだろうと思う。これは私が老人のせいかもしれないが、どうも自分が自嘲的にそう言ったとしても響きが悪い。どうも年には関係なく女性の口にする表現ではなさそうだ。

もっともこういう表現をする有識者の女性の老人は幸いなことにいない。別に女性だから特別な言葉遣いをせよというつもりはないのだが、どうもそういう風に思ってしまう。

「くそばばあ」などという憎まれ口は若い男または女がときどき中年の女性に対して発するすることを聞いたりするが、それも御愛嬌だなどと思ったことは一度もない。すくなくとも私はそういうことばを話し言葉として使ったことはいままではない。多分これからも使うことはないだろうし、フィクションでも書くこともないだろう。今、使ったではないかと言われればそうではあるが。

だから、なんでも男性に許されるから、女性にも許されるということはない。それは女子サッカーや女子ラグビーとかまでくらいにしてほしい。しかし、スポーツでは男性がするくらいのスポーツは女性もするというのはいまでは常識であろう。