昨晩(2015.7.17)、NHKのEテレで「文学白熱教室」というKazuo Ishsiguroさんの話があった。
Ishiguroさんは日系のイギリス人の有名な作家である。なんでもイギリスで権威のあるブッカ―賞を受賞された方だという。
Kazuo Ishiguroの名は鶴見さんのエッセイから知っていたとは思うが、どんな人かは知らなかった。
その方が日本に来られての講演である。
Ishiguroさんはいう。小説のテーマは数行の短い文章で要約できるものでなければならない。
それと小説は大きな隠諭でなければならない。Ishiguroさんの主張はこの二つに尽きると言っても過言ではない。
直接的な比喩ではなくもっと大きな意味での隠諭だというのである。そしてそれは事実ではないかもしれないが、真実であるべきだという。
真実と事実とはどう違うのかよくはわからないが、事実をfactと訳するとすれば、真実はtruthであろうか。
なんらかの普遍的な真実をそこに小説は含むべきだという。それは個々の事実とはちがうかもしれないが、やはり世間または社会のなんらかの真実を反映しているはずだし、また反映していなくてはならない。それが小説の意義だという。
時代、国、背景、おかれた状況等はいろいろおれぞれの小説において異なるが、それでもそれらに通底するものがある種の真実を示すという。それでなければ、事実とは異なるフィクションである、小説を書く意味がない。
Kazuo Ishiguroさんの覚悟のほどがここに表れている。彼は現在60歳だというから私よりも15,6歳下の人である。長崎生まれで5歳まで日本にいたが、父親の仕事の関係でイギリスにわたった。父親は5年後には日本に帰国するつもりであったらしいが、結局帰国しないでイギリス滞在を続けたためにイギリス人となったらしい。
その理由ははっきりとは語られなかったが、父親は生物か医学の研究者であったような気がした。
Ishiguroさんは5歳までの日本の記憶を自分の中に留めておきたいという願望から自分の頭に残る日本の小説を2つ書いて成功を収めたが、それはしかし特殊な日本における話としてイギリスやアメリカでは取られた。しかし、自分の小説はそうではないと思うようになり、舞台や時代背景をイギリスに移した英国のある貴族の館に勤務する執事の小説を書いたという。
要するに小説の主題は別におかれた場所が日本である必要はなくヨーロッパでもはたまた中東でもどこにあってもよい。表現形式もSFでもよいし、ラブロマンスでもまたはコメディでもよいという。そういう設定した場所を自由に選べるということに気づいたためにIshiguroさんはどこに場所を置くかとか表現形式はとかの設定を考える自由度ができ過ぎてそれを考えるのに多くの時間を使っている。
ある一人の作家の話ではあるが、こういう打ち明け話は聞いたことがなかったので、とても興味深かった。
ここに書いたことは文章の言葉こそ私が勝手に選んで書いてあるが、内容やその意図または言わんとするところはIshiguroさんの考えの一端を示すものであると思っている。
Ishiguroさんは日系のイギリス人の有名な作家である。なんでもイギリスで権威のあるブッカ―賞を受賞された方だという。
Kazuo Ishiguroの名は鶴見さんのエッセイから知っていたとは思うが、どんな人かは知らなかった。
その方が日本に来られての講演である。
Ishiguroさんはいう。小説のテーマは数行の短い文章で要約できるものでなければならない。
それと小説は大きな隠諭でなければならない。Ishiguroさんの主張はこの二つに尽きると言っても過言ではない。
直接的な比喩ではなくもっと大きな意味での隠諭だというのである。そしてそれは事実ではないかもしれないが、真実であるべきだという。
真実と事実とはどう違うのかよくはわからないが、事実をfactと訳するとすれば、真実はtruthであろうか。
なんらかの普遍的な真実をそこに小説は含むべきだという。それは個々の事実とはちがうかもしれないが、やはり世間または社会のなんらかの真実を反映しているはずだし、また反映していなくてはならない。それが小説の意義だという。
時代、国、背景、おかれた状況等はいろいろおれぞれの小説において異なるが、それでもそれらに通底するものがある種の真実を示すという。それでなければ、事実とは異なるフィクションである、小説を書く意味がない。
Kazuo Ishiguroさんの覚悟のほどがここに表れている。彼は現在60歳だというから私よりも15,6歳下の人である。長崎生まれで5歳まで日本にいたが、父親の仕事の関係でイギリスにわたった。父親は5年後には日本に帰国するつもりであったらしいが、結局帰国しないでイギリス滞在を続けたためにイギリス人となったらしい。
その理由ははっきりとは語られなかったが、父親は生物か医学の研究者であったような気がした。
Ishiguroさんは5歳までの日本の記憶を自分の中に留めておきたいという願望から自分の頭に残る日本の小説を2つ書いて成功を収めたが、それはしかし特殊な日本における話としてイギリスやアメリカでは取られた。しかし、自分の小説はそうではないと思うようになり、舞台や時代背景をイギリスに移した英国のある貴族の館に勤務する執事の小説を書いたという。
要するに小説の主題は別におかれた場所が日本である必要はなくヨーロッパでもはたまた中東でもどこにあってもよい。表現形式もSFでもよいし、ラブロマンスでもまたはコメディでもよいという。そういう設定した場所を自由に選べるということに気づいたためにIshiguroさんはどこに場所を置くかとか表現形式はとかの設定を考える自由度ができ過ぎてそれを考えるのに多くの時間を使っている。
ある一人の作家の話ではあるが、こういう打ち明け話は聞いたことがなかったので、とても興味深かった。
ここに書いたことは文章の言葉こそ私が勝手に選んで書いてあるが、内容やその意図または言わんとするところはIshiguroさんの考えの一端を示すものであると思っている。