物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

鶴見俊輔さん

2015-07-29 15:39:42 | 日記
朝日新聞で、鶴見俊輔さんの短い評伝が昨日に出ていた。

亡くなってから3日にわたって記事が出ることはなかなか珍しい。それだけ人々に大きな影響をを与えた人だということになる。それには私も異存がないが、それでも武谷三男が亡くなったときには鶴見さんの追悼記だけであったので少し考えさせられてしまった。

科学者はなかなか普通の人に影響を与えることが難しいということである。これは実は世の中がやはり科学的なことの理解が難しいことを示しているということではなかろうか。

哲学者も科学者と同じに難しいことを考える人であろうが、鶴見さんの場合には大衆的な芸術とか文化にも深い関心があったから、理解が文系の人にも理解しやすかったのであろう。

鶴見さんが武谷さんについて書いていることとかインタビューに答えていることではいくつかあるが、武谷さんと「うそをつくことはいけないか」という議論を徹底してしたこととか、雑誌『思想の科学』の多元主義はアメリカ帰りの4人の創刊時の同人の影響ではなく、武谷によるものだという発言は見逃せないと思う。

思想の科学の創刊同人は7人で渡辺慧、都留重人、武田清子、鶴見和子、鶴見俊輔、丸山眞男、武谷三男であるが、前から5人が海外留学組であった。渡辺慧はヨーロッパ留学であり、都留以下の4人はアメリカ留学者であった。

だが、思想の科学の多元主義は武谷から来ているという。そこら辺が不思議なところである。いかに思想の科学が武谷の意見によってその基本的な性格づけされたかがわかる。

徹底して議論をするということで鶴見さんは武谷さんを自分とってグル(導師)とまで思うようになったという。

鶴見さんは言っていた。私には哲学の先生は数人いるけれども、徹底して議論をするということを本当に身をもって教えてくれたという点で一番の師であると(注)。
人々はこういう徹底した議論は好まない。私なんかもそうである。だが、このことを身をもって教えてくれたということを鶴見さんはちゃんと見ている。

もっとも鶴見さんは弱いものにはやさしい人だった。権威とか権力をかさにきて弱いものをいじめる人には厳しかったけれども。

鶴見さんが日本でいえば、理学士の称号を持っているということを聞いて「日本風に言うなら私と同じ理学部の出身ですね」と言ったら、はにかんで「つまり理学士とはラテン語が読めないということですよ」と言われた。こういう謙虚な人なのであった。

(注)鶴見さんは別のところで都留重人さんは自分の師であると書いている。そういう意味ではいいところがあれば、すぐにそのいいところを誰からでも学んだのであろう。