物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

大学にも、会社にも希望がない

2015-07-01 12:33:13 | 日記
会社にも大学にも希望がない。

私の知らない会社のことはおいておくとしても、大学が希望の持てるものでなくなっていることは確かであろう。

法人化されたとはいえ国家の予算で運営されている国立大学がさらに体質改善という名の崩壊の一途をたどっている。国家予算が国債を発行してなんとか予算を立てている状況だからしかたがないが、それにしてもどうも卵がかえる前に腐ってしまうような感じである。

いまでもそうかもしれないが、20年以上前日本の来られて、研究していた中国人のある物理学者がその当時産業とかに応用が期待できる分野には予算がたくさん出るが、そうではない分野にはほとんど国家予算がつかないと嘆いていた。

ところがそれと同じようなことが日本でも同じ状態が出現しつつある。目玉の研究プロジェクトとかには確かに予算がつくが、それ以外には予算はほとんどつかないらしい。まあ、文系分野の学者は昔から参考文献などの購入も自分の給料からしていたということもあるのだが、それにしても以前は少しは予算がついていた。

実情を詳しく知らないが、私たちが大学に勤めていたときの配分される予算は1/3くらいになっているのではないかと思う。これでは地域に特色のある大学だとか言ってもこれでは無理というものであろう。

もっともそれでもなんとか大学に残って研究したいと思う若い人がいるとすれば、それがわずかな希望のもとになる。

ISにしてもEUに押しせる難民にしても大きな問題を世界が抱えている。それに財政問題からEUからの離脱か残留かの判断が迫っているギリシャの問題も。


戦争の概念

2015-07-01 12:12:00 | 日記
岩波の雑誌『図書』の7月号に作家の高橋源一郎さんが書いていた。

「私たちの年取った世代ともっと若い世代の間には戦争の概念が違っているのではないか」と。私たちの世代では戦争は国家間または民族間の戦争であるが、もっと若い世代ではすでに日々の生活が戦争ではないかと。確かに至るところ生き苦しい社会である。

女性参画社会だとかいうが、別に社会が女性が社会で自分の能力を十分に発揮できるような社会が実現しているかと言えば残念ながらそうではないだろう。

ある女性は子育てしながら、かつ社会参画しながら、「なおまだ女性にもっと働けと鞭打たれているようだ」と言っていたと新聞に出ていた。

いつだったか、若い女性は結婚して家庭内に入るのが理想だというアンケートという結果があると聞いたことがあり、それではちょっと夢がなさすぎると思ったことがあったが、事情通の人から聞いたところではそれくらい夢のない社会なのだという。

だから、結婚して幸せな家庭をきづくという若い女性の夢はむしろ自分を守りたいという気持ちの表れだとか聞いた。このことはもうかなり前に聞いたので私の中でひょっとしたら解釈が全く変なものに変わっているのかもしれない。その場合にはお許しのほどをお願いする。

それにしてももう国家間や民族間の戦争とかの概念が古典的な戦争の概念だとしてもまたそのような戦争をしたがっているように見える現在の安倍政権のあり方がいいはずはない。

戦争なんて正義の戦争みたいな顔をしてはじめられたことが多いのは歴史的な事実である。国家の生命線を断たれると言って中国やアメリカと戦争したのは70年以上も前のことではあるが、それと同じような主張がまかり通る時代になっている。

情報がわからないときには

2015-07-01 11:48:58 | 日記
苦労性なのであろうか。

昨日、新幹線の中でもある人の焼身自殺の報道があったときに、どういう人が自殺したのか情報がまだ十分なかったときに、自分のこどもが自殺したのではないかと気になって妻に電話を子どもにかけさせた。

これはかなりの苦労性だが、やはりいつでも子どもことを気にかけておかなくてはならないという気持ちを持っている。

これは自分自身に自信がないことがはなはだしくて、外から見たら、おかしい話だろう。私は自分が十分理性的だと思っているので、それだと私の子どもだって十分に理性的であるだろう。

だから、もし自殺をしなければならないと思い詰める前にまだ親である私たちが生きている現在では相談があるだろうと理性的には考えられる。だが、それでももしかして自分の子どもの苦境を察してやれないことがあるのではないかと気にしている。

しかし、幸いなことに子どもが本当に苦境におちいったら、相談があると思っている。


表現のしかた

2015-07-01 11:20:19 | 日記
表現のしかたについて気がついたことがある。

これはマスコミ等の使い方である。昨日新大阪行の東海道新幹線の車両の中で焼身自殺した人が出たが、これについての報道で一人の男がという報道であった。

もちろん、そういうある種の罪を犯した人でなければ、女性とか男性とか性がつく。性がつけば敬称なのかどうかはわからないが、そういういい方が定着しているということに気がついた。

これは前からそういう使い方をするのだなとは思っていたが、ことさらに気をつけてはいなかった。人は事情によって自殺することもあるのだが、自殺するにしても人に迷惑をかける方法ではよくない。もっとも公衆の面前で自殺をすれば、世間がかまってくれるということを期待するという気持ちがあるのだろう。

その気持ちはわからないでもないが、それで他人を巻き込むとなればそれは御免こうむりたいと感じるのは私だけではないだろう。

それにしてもそのことではなくて、表現のしかたがあるということにようやく気がついた次第である。