物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

コミュニケーション

2015-09-29 11:52:18 | 日記
岩波のPR誌『図書』10月号がきた。それに徳永進さんというお医者さんが連載をしているのだが、7月に鶴見俊輔さんが亡くなったためもあるだろうが、『「コミュニケーション」と「ディスコミュニケーション」』という題で同志社大学での鶴見さんの講義を聞きに行ったことが出ていた。

徳永さんは多分、京都大学医学部か府立医科大学のどちらかの出身だと思われる。そこでコミュニケーションとは何かについてその講義で鶴見さんのいったことがまとめられている。

徳永さんはコミュニケーションを電話線か何かのように思っていたらしい。ところが鶴見はお互いにコミュニケーションをした者同士が自分の思考を変えるというところに本質があるというふうに言ったらしい。

これを読んでなんだか技術論論争みたいだなと感じた。技術とは「労働手段の体系である」という節が主流だったところに武谷の「人間実践における客観的法則性の意識的適用」という説が出てくる。それらの定義のどちらが正しいのかという論争があった。いまでもあるのかもしれない。

最近、Wikipediaで調べたら、技術とは「労働手段の体系である」という定義に落ち着いているとか書いてあったが、それはそのWikipediaの記事を書いた人の立場を反映するので、決着がついたのかどうか実際のところは知らない。

どうも徳永さんがコミュニケーションを電話線か何かのように思っていたというのはどうも技術論の労働手段の体系説のような感じがしておかしかった。それに比べて鶴見さんの主張の方がどうも本質をついているようではないか。

技術論とコミュニケーションの間に概念の平行性があるかどうかはわからないが、そういうある種の平行性があるような気がしたのである。

まさか鶴見さんがこの両者の平行性を意識的に考えたとは思わないが、それにしてもうまくできた話ではある。医師の徳永さんが技術論論争の存在を知っているとは思えないのだが、はたしてどうだろうか。

『都市の論理』と経済

2015-09-29 11:21:20 | 日記
国家は自由都市の連合として再構築せよというのが羽仁五郎『都市の論理』(勁草書房)の主張である。

だが、所得税を都市が徴収して、国家には少しか納めないというときにでもそれぞれの都市が経済的に自立できるのかどうか。こういう課題を解くことができるかと先週の土曜日の雑談会で話したら、そのときおられた二人の経済学者はやはりそれは政治によるので経済だけで話がつかないと問題を押し返された。

二人の経済学者は二人ともやはり経済は政治が決めるというふうであった。そして政治が経済優先というときにはどうも政治家のいうことを疑ってかかった方がいいとも言われた。

これは安保法案を国会で通して一息ついた安倍政権の姿勢を言っているようにも聞こえた。

東京都は多分十分に国家から独立できるであろうが、他の都市はいまの機構では独立はできない。それが現在の状況である。