岩波のPR誌『図書』10月号がきた。それに徳永進さんというお医者さんが連載をしているのだが、7月に鶴見俊輔さんが亡くなったためもあるだろうが、『「コミュニケーション」と「ディスコミュニケーション」』という題で同志社大学での鶴見さんの講義を聞きに行ったことが出ていた。
徳永さんは多分、京都大学医学部か府立医科大学のどちらかの出身だと思われる。そこでコミュニケーションとは何かについてその講義で鶴見さんのいったことがまとめられている。
徳永さんはコミュニケーションを電話線か何かのように思っていたらしい。ところが鶴見はお互いにコミュニケーションをした者同士が自分の思考を変えるというところに本質があるというふうに言ったらしい。
これを読んでなんだか技術論論争みたいだなと感じた。技術とは「労働手段の体系である」という節が主流だったところに武谷の「人間実践における客観的法則性の意識的適用」という説が出てくる。それらの定義のどちらが正しいのかという論争があった。いまでもあるのかもしれない。
最近、Wikipediaで調べたら、技術とは「労働手段の体系である」という定義に落ち着いているとか書いてあったが、それはそのWikipediaの記事を書いた人の立場を反映するので、決着がついたのかどうか実際のところは知らない。
どうも徳永さんがコミュニケーションを電話線か何かのように思っていたというのはどうも技術論の労働手段の体系説のような感じがしておかしかった。それに比べて鶴見さんの主張の方がどうも本質をついているようではないか。
技術論とコミュニケーションの間に概念の平行性があるかどうかはわからないが、そういうある種の平行性があるような気がしたのである。
まさか鶴見さんがこの両者の平行性を意識的に考えたとは思わないが、それにしてもうまくできた話ではある。医師の徳永さんが技術論論争の存在を知っているとは思えないのだが、はたしてどうだろうか。
徳永さんは多分、京都大学医学部か府立医科大学のどちらかの出身だと思われる。そこでコミュニケーションとは何かについてその講義で鶴見さんのいったことがまとめられている。
徳永さんはコミュニケーションを電話線か何かのように思っていたらしい。ところが鶴見はお互いにコミュニケーションをした者同士が自分の思考を変えるというところに本質があるというふうに言ったらしい。
これを読んでなんだか技術論論争みたいだなと感じた。技術とは「労働手段の体系である」という節が主流だったところに武谷の「人間実践における客観的法則性の意識的適用」という説が出てくる。それらの定義のどちらが正しいのかという論争があった。いまでもあるのかもしれない。
最近、Wikipediaで調べたら、技術とは「労働手段の体系である」という定義に落ち着いているとか書いてあったが、それはそのWikipediaの記事を書いた人の立場を反映するので、決着がついたのかどうか実際のところは知らない。
どうも徳永さんがコミュニケーションを電話線か何かのように思っていたというのはどうも技術論の労働手段の体系説のような感じがしておかしかった。それに比べて鶴見さんの主張の方がどうも本質をついているようではないか。
技術論とコミュニケーションの間に概念の平行性があるかどうかはわからないが、そういうある種の平行性があるような気がしたのである。
まさか鶴見さんがこの両者の平行性を意識的に考えたとは思わないが、それにしてもうまくできた話ではある。医師の徳永さんが技術論論争の存在を知っているとは思えないのだが、はたしてどうだろうか。