物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

緑黄色社会

2024-12-06 11:18:45 | 本と雑誌
昨夜、NHKのSongsではじめて歌のグループの「緑黄色社会」の音楽を聞いた。

緑黄色野菜というのは普通名詞だが、固有名詞として「緑黄色社会」というグループは知らなかった。

なかなかいい音楽を演奏していた。長屋さんが中心人物である。彼女はルックスがいいだけではなく、歌唱力があり、かつリーダー性もある方とお見受けした。

なかなかこういうタイプの音楽を聞く機会は私には残念ながらない。今回もNHKのソングスで見たので初めて知った。

人がちがえば、意見がちがう

2024-12-05 13:41:12 | 数学
人がちがえば、意見がちがう。

こんなことはもちろん誰でも承知していることだろうが、それでもそれを実感する機会はいつでもある。

先月書いた数学セミナーに投稿した原稿「四元数入門」に意見がついて帰って来た。大筋では編集者に合意されていた原稿ではあるが、やはり文章は細かく吟味されている。なるほどと思うことが多いが、やはり意見の差とか考え方の差もあるだろう。

それを数日中に修正して返却しなければならないことになった。主に編集者の意見に従うつもりだが、一箇所だけちょっと書き方をこれから考えた方がいいかと考えているところがある。

修正意見は正しいのだが、そこを少しは自分らしさが出せないかと考えている。

今書いているエッセイ

2024-12-04 10:31:21 | 本と雑誌
今書いているエッセイはA4で14ページになっている。これでおしまいにしたいと思っていたのだが、また昨日2ページほど書き加えたくなっている。

すでに草稿は昨日書いたが、パソコン入力をしなくてはならない。また一日以上かかるし、それを読み直すこともするので、数日かかるだろう。

これは「数学・物理通信」14巻7号の原稿のつもりである。すでに2編の投稿があり、その上に14ページ以上のエッセイであるので、既定の枚数30ページは越えるのだが、しかたがなかろう。

以前に書いた「四元数と空間回転1」を改訂する必要も最近出てきたのだが、こちらはまだ手を付けていない。



サイモン・ナバトフのジャズ・リサイタル

2024-12-03 10:47:40 | 本と雑誌
サイモン・ナバトフのジャパン・ツアの最終日に愛媛県伊予市の会場にコンサートに昨晩出かけた。

サイモン・ナバトフは1959年の生まれというから私とちょうど20歳の違いである。だからもちろん元気なピアニストでジャズはピアノを叩いたりした演奏がコンサートの後半に入り、ピアノの演奏が上手とかいうだけではなく、ユーモアというか茶目っ気もあるジャズピアニストだということがうかがえて演奏を聞くのが楽しかった。

ある種のかつての音楽の神童であったということだろうが、65歳の今では円熟したジャズ・ピアニストである。

残念ながら、観客は超満員というわけではなかったが、そこそこは来られていた。関係者のご尽力によるものであろう。

世話人の一人は私の近隣の I さんであった。


話がだんだんと深刻になっていくが、

2024-12-02 16:42:40 | 本と雑誌
このブログの話題がだんだんと深刻になっていくが、それでも私は楽観的に考えている。これは人間の理性をあくまで信用するからである。

なかなか理解が難しくても最後には理解できるようになるのだという単なる自分の経験に根ざしている。だから合理的な根拠があるわけではない。

ただ、そういう楽観性がやはり根本では必要ではないだろうか。これがどこから来るのかと聞かれても私も答えられない。そう思っているだけだから。それは単なる私の過信かもしれない。

話はまったく別だが、政治の世界での権力欲を持ちたい人のことはどうしようもない。だれがどうだとか言ってみてもどうしようもない。

地球の未来というか人類の未来がだんだん短くなっているとは実感しているが、それを考慮したり、実感したりすることのできない政治の世界のリーダーたちはバカだなとしかいいようがない。特に現在の世界の情勢を鑑みるとき。

かけ算の意味がわからない子ども

2024-12-01 15:23:07 | 数学
昨日は土曜日だったので、ただ塾の先生に出かけた。

今日は首ねっこをつかまえたような感じで生徒さんに対応したので、途中で原因はわからないが胃がしくしくと痛んだ。

家に帰ってからもしばらく痛んだが,照明を消して暗くして、FMのラジオで音楽を聞いていたら、いつの間にか痛みは止まっていた。

夕食の話題はただ塾の生徒さんが話を聞いてくれたかという話を妻が聞いてくれたので、むりやり教科書の問題を読ませて考えさせたと言ったら、塾に来た子どもで掛け算の意味がわからなかった子がいたという話をしてくれた。

本人に責任があるという風には考えなくて、教え方の問題であると考えていると妻は言う。もしそこらあたりから数学のわからなさが起因しいているとすれば、かなり重症である。

大抵の子どもは本当によくわかっているかどうかはわからないが、なんとかかけ算の意味を了解して使いこなせるようになるのだが、そういう子どもばかりはないということである。

世の中に少数だが、そういう子どもがいることは認識しておきたい。

妻によるとかけ算の意味がわからないのだから、割り算はもっと難しいのだと思うとのことであった。

かけ算の意味ががわからないと思っていた子どもさんも自分がわからないことで塾の先生に迷惑をかけたと思っていたようだという。

「本当はわからない子どもがわるいのではなく、そういう感覚を持つ子供はすぐれた感覚の持ち主なのかもしれないね」という結論に達した。

しかし、それに対する対策はなかなか思い当たらない。

普通には(一当たり量)の(いくつ分)ということでかけ算の意味を教えるのだが、そういう教え方が通用しない子どもがいるということを示しているのだろう。

(ある量)の(何倍)ということで教える先生もおられるだろう。

かけ算の意味はどうだったかを深く考えなくてはならないだろう。

私などは3+3+3=3*3などと教えられたが、そういう教え方ではない教え方が現在ではされていると思う。

しかし、わからない子どもにはいろいろな教え方で教えて見て一つでもなっとくできる方法があれば、いいのだが。