「北海道開拓の父」とよばれ、札幌市内各所にその顕彰碑が建てられている開拓使主席判官の島義勇の在任期間がわずか半年だったとは意外でした。
1月29日、札幌市民カレッジの「札幌の歴史をふりかえる」の第三回講座が行われました。
講師は山鼻南小学校長の田山修三氏が務め、「開拓使と札幌のまちづくり」と題してお話いただきました。
札幌の街が現在のように整然として碁盤の目のように造られたのは島義勇判官の発想であり、功績であることは私も聞きかじっておりました。
しかし、彼の在任期間がわずか半年だったとは意外でした。
島判官は明治2年(1869年)7月に「開拓使主席判官」に任命され、着任後すぐに札幌のまちづくりに着手し、冬期間の厳しさの中でも工事を断行したようです。ところが多額の費用と労力を要することで当時の東久世開拓使長官と衝突し解任されているのです。その時が明治3年(1870年)1月19日ということですから、在任期間はちょうど半年ということになります。
わずか半年間の在任とはいえその名を後世に残すことになったのは、いかにその構想が壮大であり、的確であったかということなのでしょう。
ちょっと素人っぽい想像もしてみました。
というのは、島判官より早く札幌開拓に着手した大友亀太郎の存在です。
大友は1866年4月に江戸幕府の「蝦夷地開拓掛」として現在の東区元町あたりに入り開拓に着手します。大友が開拓地の用排水路として「大友堀」を掘削し、札幌における街づくりの基点を造ったとされています。事実、その後入植者の増加し土地開発は拡大の一途を辿ったとあります。
ところが時代は江戸幕府から明治新政府へと移り変わりました。
明治新政府は明治2年(1869年)「北海道開拓使」を設置し、長官に鍋島直正、主席判官に島義勇を任命したのです。大友はその時「開拓使使掌」を命じられました。
しかし、明治新政府の誕生は大友の時代の終焉を意味していたのでしょう。翌明治3年(1870年)、大友は北海道を去ることになります。
ここで「たら、れば」的素人の妄想が湧き起こってきたのです。
江戸幕府がもう少し続いていたとしたら、そして大友が蝦夷地開拓の責任者をもう少し長く続けていたとしたら、札幌の中心地はもしかしたら現在の元町辺りになっていたかも?というのは素人過ぎる発想でしょうか???
1月29日、札幌市民カレッジの「札幌の歴史をふりかえる」の第三回講座が行われました。
講師は山鼻南小学校長の田山修三氏が務め、「開拓使と札幌のまちづくり」と題してお話いただきました。
札幌の街が現在のように整然として碁盤の目のように造られたのは島義勇判官の発想であり、功績であることは私も聞きかじっておりました。
しかし、彼の在任期間がわずか半年だったとは意外でした。
島判官は明治2年(1869年)7月に「開拓使主席判官」に任命され、着任後すぐに札幌のまちづくりに着手し、冬期間の厳しさの中でも工事を断行したようです。ところが多額の費用と労力を要することで当時の東久世開拓使長官と衝突し解任されているのです。その時が明治3年(1870年)1月19日ということですから、在任期間はちょうど半年ということになります。
わずか半年間の在任とはいえその名を後世に残すことになったのは、いかにその構想が壮大であり、的確であったかということなのでしょう。
ちょっと素人っぽい想像もしてみました。
というのは、島判官より早く札幌開拓に着手した大友亀太郎の存在です。
大友は1866年4月に江戸幕府の「蝦夷地開拓掛」として現在の東区元町あたりに入り開拓に着手します。大友が開拓地の用排水路として「大友堀」を掘削し、札幌における街づくりの基点を造ったとされています。事実、その後入植者の増加し土地開発は拡大の一途を辿ったとあります。
ところが時代は江戸幕府から明治新政府へと移り変わりました。
明治新政府は明治2年(1869年)「北海道開拓使」を設置し、長官に鍋島直正、主席判官に島義勇を任命したのです。大友はその時「開拓使使掌」を命じられました。
しかし、明治新政府の誕生は大友の時代の終焉を意味していたのでしょう。翌明治3年(1870年)、大友は北海道を去ることになります。
ここで「たら、れば」的素人の妄想が湧き起こってきたのです。
江戸幕府がもう少し続いていたとしたら、そして大友が蝦夷地開拓の責任者をもう少し長く続けていたとしたら、札幌の中心地はもしかしたら現在の元町辺りになっていたかも?というのは素人過ぎる発想でしょうか???