開拓使時代に建てられた札幌の建築物は洋風建築が主だと思っていましたが、外観は洋風でも内部は和風というのが主流であったそうです。
5日(木)市民カレッジ「札幌の歴史をふりかえる」の最終講座(4講目)がありました。
今回は「明治から大正期にかけての札幌の建造物」と題して、札幌私立大学デザイン学部教授の羽深久夫(はぶか ひさお)氏による講義でした。
羽深氏は建築史が専門の方ですが、歴史を彩る表面の出来事の背景に触れた部分に興味深いものがありました。
曰く、開拓使は薩摩藩が主流であったが、それは北海道開拓の実権を握ることによって北海道の豊かな産物の権益を薩摩藩が握ることにあった。とか・・・
お雇い外国人に明治政府が模範としたドイツ人ではなく、アメリカ人が多かったのは同じ連邦制を敷く両国でも、アメリカの方が中央政府の力が強い体制だったことが明治政府が描いていた理想に近かったからだ。
といったことを興味深くうかがいました。
さて、講義題の「明治から大正期にかけての札幌の建造物」については、洋館が多いように見受けられるが、内実は「洋造りの外部と和造りの内部」という指向が札幌の建造物には多いということでした。
もちろんそれまでの日本になかった学校、病院、工場などはアメリカ風の造りがそっくり持ち込まれたが、住宅などは一見洋風に見えても内部は和式であったようです。
札幌市において洋風住宅として有名であった冨樫家の住宅(現存してはいません)も、外観は洋館そのものですが、内部は和造りであったことを詳しい図とともに説明してくれました。
羽深氏は最後の次のように講義を結ばれました。
札幌は縄文時代から人が住みやすいところだった。
札幌は水の都だった。
札幌は和風建築が主流だった。
札幌を理解する上、札幌の歴史を学ぶことが不可欠なことのように思えます。
そうしたことを学ぶ場が用意されている札幌市民であることに喜びを感じています。
いゃ~、少しストレートに語りすぎましたかね?
5日(木)市民カレッジ「札幌の歴史をふりかえる」の最終講座(4講目)がありました。
今回は「明治から大正期にかけての札幌の建造物」と題して、札幌私立大学デザイン学部教授の羽深久夫(はぶか ひさお)氏による講義でした。
羽深氏は建築史が専門の方ですが、歴史を彩る表面の出来事の背景に触れた部分に興味深いものがありました。
曰く、開拓使は薩摩藩が主流であったが、それは北海道開拓の実権を握ることによって北海道の豊かな産物の権益を薩摩藩が握ることにあった。とか・・・
お雇い外国人に明治政府が模範としたドイツ人ではなく、アメリカ人が多かったのは同じ連邦制を敷く両国でも、アメリカの方が中央政府の力が強い体制だったことが明治政府が描いていた理想に近かったからだ。
といったことを興味深くうかがいました。
さて、講義題の「明治から大正期にかけての札幌の建造物」については、洋館が多いように見受けられるが、内実は「洋造りの外部と和造りの内部」という指向が札幌の建造物には多いということでした。
もちろんそれまでの日本になかった学校、病院、工場などはアメリカ風の造りがそっくり持ち込まれたが、住宅などは一見洋風に見えても内部は和式であったようです。
札幌市において洋風住宅として有名であった冨樫家の住宅(現存してはいません)も、外観は洋館そのものですが、内部は和造りであったことを詳しい図とともに説明してくれました。
羽深氏は最後の次のように講義を結ばれました。
札幌は縄文時代から人が住みやすいところだった。
札幌は水の都だった。
札幌は和風建築が主流だった。
札幌を理解する上、札幌の歴史を学ぶことが不可欠なことのように思えます。
そうしたことを学ぶ場が用意されている札幌市民であることに喜びを感じています。
いゃ~、少しストレートに語りすぎましたかね?