近代史の断面をリアルに触れる月形ルート
樺戸集治監の囚人たちにより拓かれたという月形町。その広大な大地には黄金色に色付きつつある稲穂が見渡すかぎり続いていた…。と思っていたのだが、歩き進めるうちにそうではない厳しい現実にも直面した。
マップの説明によると「墓地を過ぎると、田んぼが広がります」とあった。
ところがどこにも稲穂が見当たらない。確かに田んぼの跡のような土地は見えるのだが、そこには何も植わってはいなかった。休耕田のようである。整備された水田跡が痛々しく感じられた。
※ 雑草が生い茂っていた水田跡を耕した後のようである。
「篠津山囚人墓地」から市街地へ還る道は国道ではなく、農道だった。
その中を進んでいくと、稲穂が実っている水田と、雑草が生い茂っている水田跡がパッチワークのように広がっていた。いわゆる米の生産調整がなされた結果なのだろうと思われる。上部機関からの指導とはいえ、水田農家の無念が伝わってくるような光景だった。
※ こうした黄金色に色付く稲穂の光景も目に入るのですが…。
※ 他方に目をやると、ご覧のように雑草が生い茂った光景が目に入ります。
※ 道一つ隔てて、右側は収穫間近な水田が、左側は雑草が生い茂る休耕田と対照的です。
そうした光景を農道の左右に見ながら淡々と歩を進める。
この日はけっこう気温が上がったと伝えられたが、風があったこともあり8月のウォークとは比べものにならないくらい快適なウォーキングとなった。
かなり市街地に近づいたところに「監獄灌漑溝(かんがいこう)」があった。(近くにあった碑には「監獄水田跡」とあったが)
これは「樺戸集治監」の水田や入植者の水田に利用する灌漑用水を確保するために、囚人の手によって掘られた用水路だという。その後、改修され現在のようなコンクリート装工となり現在も利用されているということだ。
※ 囚人たちが掘削したという「監獄灌漑溝」です。
※ 灌漑溝の脇には「監獄水田跡」という碑が立っていました。
やがてルートは市街地へ戻ってくる。市街地の住宅街の中に「北漸寺(ほくぜんじ)」というお寺がある。このお寺は「樺戸集治監」の囚人たちの手によって建てられた寺だということだ。
さらに市街中心部に進み、月形小学校の横にある「円福寺(えんぷくじ)」もやはり囚人たちの手により建築された寺だという。
こうしてみると、「樺戸集治監」の囚人たちは道路建設や水田開拓ばかりでなく、月形町のあらゆる基盤づくりに関わっていたことが分かってくる。
その歴史を知ることができるのが月形町役場と肩を並べるようにして建つ「月形樺戸博物館」(旧樺戸集治監本庁舎)である。
私は以前に月形町を訪れる機会があって、その時にじっくりと見学し、月形の歴史を学ぶことができた。今回はそのため博物館見学はパスしたのだが、充実した展示内容とそのことから分かる「樺戸集治監」の囚人たちが月形町を形づくるうえで果たした役割の大きさを実感したのだった。
※ 月形町役場庁舎です。
※ 役場庁舎のすぐ横に建つ「月形樺戸博物館」です。
こうしてゴールの「JR石狩月形駅」に帰ってきたのだが、街中で一つのことに気が付いた。それは街灯のところに「花の里」と書かれたステンドグラスのような表示が目に入ったのだ。そういえば街中のいたるところに花が目立っていた。
ただ、私にはそのことが少し気になった。植えられている花の種類が「四季咲きベゴニア」や「マリーゴールド」など、きわめて一般的な花だったことだ。花づくりや花壇のことに多少関心のある私としては「花の里」を標榜するなら、一歩先を行くような花の提示や花壇の見せ方をしてほしいなぁ、と少し贅沢な注文をしてみたくなった。
※ 街中にはこうした「花の里」の表示が目立ったのですが…。
※ 私にはあまり美しいとは見えなかった花壇ですが…(失礼!)
ともかく、月形のフットパスルートは徹底的に「樺戸集治監」にこだわったルートづくりをしたようである。それだけ「樺戸集治監」が月形町の礎づくりに果たした役割の大きさを改めて認識することができた。
《フットパスウォーク実施日 ‘13/09/05 距離約11.3㎞》
樺戸集治監の囚人たちにより拓かれたという月形町。その広大な大地には黄金色に色付きつつある稲穂が見渡すかぎり続いていた…。と思っていたのだが、歩き進めるうちにそうではない厳しい現実にも直面した。
マップの説明によると「墓地を過ぎると、田んぼが広がります」とあった。
ところがどこにも稲穂が見当たらない。確かに田んぼの跡のような土地は見えるのだが、そこには何も植わってはいなかった。休耕田のようである。整備された水田跡が痛々しく感じられた。
※ 雑草が生い茂っていた水田跡を耕した後のようである。
「篠津山囚人墓地」から市街地へ還る道は国道ではなく、農道だった。
その中を進んでいくと、稲穂が実っている水田と、雑草が生い茂っている水田跡がパッチワークのように広がっていた。いわゆる米の生産調整がなされた結果なのだろうと思われる。上部機関からの指導とはいえ、水田農家の無念が伝わってくるような光景だった。
※ こうした黄金色に色付く稲穂の光景も目に入るのですが…。
※ 他方に目をやると、ご覧のように雑草が生い茂った光景が目に入ります。
※ 道一つ隔てて、右側は収穫間近な水田が、左側は雑草が生い茂る休耕田と対照的です。
そうした光景を農道の左右に見ながら淡々と歩を進める。
この日はけっこう気温が上がったと伝えられたが、風があったこともあり8月のウォークとは比べものにならないくらい快適なウォーキングとなった。
かなり市街地に近づいたところに「監獄灌漑溝(かんがいこう)」があった。(近くにあった碑には「監獄水田跡」とあったが)
これは「樺戸集治監」の水田や入植者の水田に利用する灌漑用水を確保するために、囚人の手によって掘られた用水路だという。その後、改修され現在のようなコンクリート装工となり現在も利用されているということだ。
※ 囚人たちが掘削したという「監獄灌漑溝」です。
※ 灌漑溝の脇には「監獄水田跡」という碑が立っていました。
やがてルートは市街地へ戻ってくる。市街地の住宅街の中に「北漸寺(ほくぜんじ)」というお寺がある。このお寺は「樺戸集治監」の囚人たちの手によって建てられた寺だということだ。
さらに市街中心部に進み、月形小学校の横にある「円福寺(えんぷくじ)」もやはり囚人たちの手により建築された寺だという。
こうしてみると、「樺戸集治監」の囚人たちは道路建設や水田開拓ばかりでなく、月形町のあらゆる基盤づくりに関わっていたことが分かってくる。
その歴史を知ることができるのが月形町役場と肩を並べるようにして建つ「月形樺戸博物館」(旧樺戸集治監本庁舎)である。
私は以前に月形町を訪れる機会があって、その時にじっくりと見学し、月形の歴史を学ぶことができた。今回はそのため博物館見学はパスしたのだが、充実した展示内容とそのことから分かる「樺戸集治監」の囚人たちが月形町を形づくるうえで果たした役割の大きさを実感したのだった。
※ 月形町役場庁舎です。
※ 役場庁舎のすぐ横に建つ「月形樺戸博物館」です。
こうしてゴールの「JR石狩月形駅」に帰ってきたのだが、街中で一つのことに気が付いた。それは街灯のところに「花の里」と書かれたステンドグラスのような表示が目に入ったのだ。そういえば街中のいたるところに花が目立っていた。
ただ、私にはそのことが少し気になった。植えられている花の種類が「四季咲きベゴニア」や「マリーゴールド」など、きわめて一般的な花だったことだ。花づくりや花壇のことに多少関心のある私としては「花の里」を標榜するなら、一歩先を行くような花の提示や花壇の見せ方をしてほしいなぁ、と少し贅沢な注文をしてみたくなった。
※ 街中にはこうした「花の里」の表示が目立ったのですが…。
※ 私にはあまり美しいとは見えなかった花壇ですが…(失礼!)
ともかく、月形のフットパスルートは徹底的に「樺戸集治監」にこだわったルートづくりをしたようである。それだけ「樺戸集治監」が月形町の礎づくりに果たした役割の大きさを改めて認識することができた。
《フットパスウォーク実施日 ‘13/09/05 距離約11.3㎞》