第4日目(新7合目「御来光山荘」 ⇒ 富士山山頂・剣が峰 3.2km)
いよいよこの日は私の70歳の誕生日。今回のプロジェクトを完成させる日である。心配された天気はなんとか登山に支障のない天気となってくれた。もう一つの心配の種だった高山病は?宿泊した「御来光山荘」は2,780m地点。3,000m地点を迎えて私の体調はどうなるのだろうか?
私の体はいったいどうなっているのだろう?
前夜と同じ、というより前夜よりもひどく午後6時にシュラフにもぐりこんだものの、一睡もできずに過ごした。朝1時ころからご来光を拝むための一行が起きだし騒がしくなったため、私もたまらず2時ころから起きだし、出発の準備を始める始末だった。
暗い中での準備に手間取ったこともあり、結局山小屋を出発したのは午前3時20分だった。辺りはまだ暗く、気温も低かったので、上下ともにレインウェアを着込み、キャップランプを点けての登山を開始した。
これまでの3日間の疲労が蓄積していて、行動を開始するも、まったくののろまなカメさんだった。一歩一歩の歩みがとても重い。
私のスタートした時間は、ご来光を拝むには遅すぎ、普通に登山をするには早すぎるという中途半端な時間のため、私の前後に登山者は見当たらなかった。
新7合目から、元祖7合目までどれくらいの距離があるのだろうか?山室「山口山荘」の光はすぐ近くに見えるのに、その間1時間かかり4時20分に到達した。ここで高度が初めて3,000mを突破した。
新7合目からは登山路の様相が明らかに変わった。富士山の噴火の名残が色濃く残る火山岩が折り重なった登山路に変身していた。
連続してはとても登れない。数歩登っては一息入れて、再び登り始める、という繰り返しでゆっくりゆっくり登っていく。
この頃になると、辺りが徐々に明るくなってきた。この日の日の出時刻(5:00)が迫ってきていた。ただ、私が登っている富士宮口コースは山陰になっていて直接ご来光を拝むことはできなかった。
元祖7合目からやはり1時間強かかり5時23分、8合目にある山室「池田館」に到達した。(高度3,250m)池田館はすでに開店していて、ここで一休止して、水分を補給した。(ポカリスェット500円)
※ この日は夜明け前に行動を開始したため、前半の様子は写真に残せなかった。
写真は8合目に向かう登山路を写したものです。
再始動しようとしたところ、前に一人の登山者がいた。「先へどうぞ」と言ってくれる。後ろに誰かがいると、ペースを乱されるので遠慮したのだが、彼は前へ行こうとしない。しかたなく前を行くことにしたのだが、彼とはその後前後しながら登ることになった。
彼との間では自然に会話も生まれたのだが、彼は72歳ということだった。彼は登山のベテランのようだったので、聞いてみた。「以前の時には高山病を患ったのだが、大丈夫だろうか?」と…。彼は「すでに3,000mを超えていて何も症状が出ないのであれば大丈夫だろう。水分をこまめに取るとよい」とアドバイスをいただいた。
※ 富士山の8合目以上は浅間大社奥宮の境内地ということで、8合目の山室の上方に写真の鳥居が立っていました。
※ また面白い柱が立っていたが、近づいてみると、柱の隙間にびっしりとコインが挟まっていました。
※ この辺りでは天気も良く、下界も視野に入るほどだったのですが…。
彼の登り方はほんとうに無理をしない登り方だった。見ていると絶えず立ち止まり、水分を補給している。私もできるだけ彼の登り方を真似するように一歩一歩歩を進めた。
この頃になると、山頂でご来光を拝んだ人たちが下山するのが目立つようになり、登山路が混雑し始めた。
ガイドマップの標準時間30分のところをおよそ1時間かけて、6時30分9合目に到達した。(山室「万年雪荘」 高度3,460m)
※ 9合目の山室「万年雪荘」です。
その後もひたすら耐えながらの登りが続いた。
山頂から降りてくる人たちが増えてきた。その中にひときわ小さな二人の元気な男の子がいた。ハーフの双子だったようだ、あまりに小さいので年齢を訊くと「6歳」だという。1年生で富士山登山とは驚きだ。と思っていたら、その後から似たような顔の女の子が降りてきた。明らかに双子より小さい。おそらく2歳くらい下の子だったのではないだろうか。母親に「つらくて泣いたりしませんか?」と尋ねると「時々怪しくなりますけどね」ということだった。いやいや子どもの方が軽やかに登ることができるのかもしれない。
※ この日の天気が良かった時間の写真は前掲の写真とこの写真の2毎だけです。
※ 頂上に近づくほど、こうした火山岩が横たわる登山道となってきました。
最後の山室「胸突山荘」(高度3,580m)に到達したのは7時17分だった。
富士山の登山路の標識は山室が近くなると「あと200m」の表示が出る。この200mが長い。おそらくこの表示が出てから、私の場合だと15分以上かかっていたのではないか。
※ 最後の山室、9合5勺に建つ「胸突山荘」です。
胸突山荘を後にすると、本当にそれまで以上にきつい登りの胸突き八丁が待っていた。
遠くの山頂にある「浅間大社奥宮」の鳥居が望めるのだが、なかなか近づかない。
あえぎあえぎ、火山岩の塊の中を登り、富士宮口の山頂「浅間大社奥宮」に到着したのは8時14分だった。高山病を自覚することもなく、無事に山頂に立つことができた。
しかし、この奥宮の高度(標高)は3,720mである。私の目的はあくまで剣が峰の3,776mに立つことである。
※ 9合5勺に建つ「胸突山荘」を過ぎてから山頂までの登山路三態です。
※ 山頂直前、浅間大社奥宮の鳥居をくぐり、山頂に到達です。
※ 改装なったばかりの「浅間大社奥宮」です。
焦ることはない。富士宮口の山頂「浅間大社奥宮」の横に建つ山室「富士館」で「マルちゃん赤いきつね(800円)」で朝食を摂ったことはライブレポで報告したとおりである。
※ 富士山ドーム(気象観測所)だった建物が建つ、剣が峰です。
朝食の後、目的の「剣が峰」はすぐ目の前である。
お腹を満たした私はあまり苦労することもなくおよそ20分かけて滑りやすい急斜面を登り、9時10分、ついに日本の最高峰である剣が峰に立った!
※ 剣が峰に向かう途中、富士山の大火口が目に入ります。
剣が峰に立ったとき、俄かに雨が降り出した。この雨はけっして涙雨ではない。私には祝福のシャワーだと思えた。
自らの70歳の誕生日を日本最高峰で迎える、これに勝る喜びはないだろう。しかも、海抜〇メートルから、自らの足で4日間かけて歩き、そして登ってきたのだ。
苦しかった4日間の日々が蘇り、喜びは倍加した。
天候に恵まれた4日間とは言い難かった。しかし、それが自然である。自然の厳しさを体感できたのも、今回の4日間の収穫だった。
私にとって忘れがたい大きな勲章を得た思いで感激に浸った剣が峰の頂だった。
ここまで、4日間の私の様子を詳細に語ってきた。
明日からは、Sea to Summit全体を振り返ることにしたい。
いよいよこの日は私の70歳の誕生日。今回のプロジェクトを完成させる日である。心配された天気はなんとか登山に支障のない天気となってくれた。もう一つの心配の種だった高山病は?宿泊した「御来光山荘」は2,780m地点。3,000m地点を迎えて私の体調はどうなるのだろうか?
私の体はいったいどうなっているのだろう?
前夜と同じ、というより前夜よりもひどく午後6時にシュラフにもぐりこんだものの、一睡もできずに過ごした。朝1時ころからご来光を拝むための一行が起きだし騒がしくなったため、私もたまらず2時ころから起きだし、出発の準備を始める始末だった。
暗い中での準備に手間取ったこともあり、結局山小屋を出発したのは午前3時20分だった。辺りはまだ暗く、気温も低かったので、上下ともにレインウェアを着込み、キャップランプを点けての登山を開始した。
これまでの3日間の疲労が蓄積していて、行動を開始するも、まったくののろまなカメさんだった。一歩一歩の歩みがとても重い。
私のスタートした時間は、ご来光を拝むには遅すぎ、普通に登山をするには早すぎるという中途半端な時間のため、私の前後に登山者は見当たらなかった。
新7合目から、元祖7合目までどれくらいの距離があるのだろうか?山室「山口山荘」の光はすぐ近くに見えるのに、その間1時間かかり4時20分に到達した。ここで高度が初めて3,000mを突破した。
新7合目からは登山路の様相が明らかに変わった。富士山の噴火の名残が色濃く残る火山岩が折り重なった登山路に変身していた。
連続してはとても登れない。数歩登っては一息入れて、再び登り始める、という繰り返しでゆっくりゆっくり登っていく。
この頃になると、辺りが徐々に明るくなってきた。この日の日の出時刻(5:00)が迫ってきていた。ただ、私が登っている富士宮口コースは山陰になっていて直接ご来光を拝むことはできなかった。
元祖7合目からやはり1時間強かかり5時23分、8合目にある山室「池田館」に到達した。(高度3,250m)池田館はすでに開店していて、ここで一休止して、水分を補給した。(ポカリスェット500円)
※ この日は夜明け前に行動を開始したため、前半の様子は写真に残せなかった。
写真は8合目に向かう登山路を写したものです。
再始動しようとしたところ、前に一人の登山者がいた。「先へどうぞ」と言ってくれる。後ろに誰かがいると、ペースを乱されるので遠慮したのだが、彼は前へ行こうとしない。しかたなく前を行くことにしたのだが、彼とはその後前後しながら登ることになった。
彼との間では自然に会話も生まれたのだが、彼は72歳ということだった。彼は登山のベテランのようだったので、聞いてみた。「以前の時には高山病を患ったのだが、大丈夫だろうか?」と…。彼は「すでに3,000mを超えていて何も症状が出ないのであれば大丈夫だろう。水分をこまめに取るとよい」とアドバイスをいただいた。
※ 富士山の8合目以上は浅間大社奥宮の境内地ということで、8合目の山室の上方に写真の鳥居が立っていました。
※ また面白い柱が立っていたが、近づいてみると、柱の隙間にびっしりとコインが挟まっていました。
※ この辺りでは天気も良く、下界も視野に入るほどだったのですが…。
彼の登り方はほんとうに無理をしない登り方だった。見ていると絶えず立ち止まり、水分を補給している。私もできるだけ彼の登り方を真似するように一歩一歩歩を進めた。
この頃になると、山頂でご来光を拝んだ人たちが下山するのが目立つようになり、登山路が混雑し始めた。
ガイドマップの標準時間30分のところをおよそ1時間かけて、6時30分9合目に到達した。(山室「万年雪荘」 高度3,460m)
※ 9合目の山室「万年雪荘」です。
その後もひたすら耐えながらの登りが続いた。
山頂から降りてくる人たちが増えてきた。その中にひときわ小さな二人の元気な男の子がいた。ハーフの双子だったようだ、あまりに小さいので年齢を訊くと「6歳」だという。1年生で富士山登山とは驚きだ。と思っていたら、その後から似たような顔の女の子が降りてきた。明らかに双子より小さい。おそらく2歳くらい下の子だったのではないだろうか。母親に「つらくて泣いたりしませんか?」と尋ねると「時々怪しくなりますけどね」ということだった。いやいや子どもの方が軽やかに登ることができるのかもしれない。
※ この日の天気が良かった時間の写真は前掲の写真とこの写真の2毎だけです。
※ 頂上に近づくほど、こうした火山岩が横たわる登山道となってきました。
最後の山室「胸突山荘」(高度3,580m)に到達したのは7時17分だった。
富士山の登山路の標識は山室が近くなると「あと200m」の表示が出る。この200mが長い。おそらくこの表示が出てから、私の場合だと15分以上かかっていたのではないか。
※ 最後の山室、9合5勺に建つ「胸突山荘」です。
胸突山荘を後にすると、本当にそれまで以上にきつい登りの胸突き八丁が待っていた。
遠くの山頂にある「浅間大社奥宮」の鳥居が望めるのだが、なかなか近づかない。
あえぎあえぎ、火山岩の塊の中を登り、富士宮口の山頂「浅間大社奥宮」に到着したのは8時14分だった。高山病を自覚することもなく、無事に山頂に立つことができた。
しかし、この奥宮の高度(標高)は3,720mである。私の目的はあくまで剣が峰の3,776mに立つことである。
※ 9合5勺に建つ「胸突山荘」を過ぎてから山頂までの登山路三態です。
※ 山頂直前、浅間大社奥宮の鳥居をくぐり、山頂に到達です。
※ 改装なったばかりの「浅間大社奥宮」です。
焦ることはない。富士宮口の山頂「浅間大社奥宮」の横に建つ山室「富士館」で「マルちゃん赤いきつね(800円)」で朝食を摂ったことはライブレポで報告したとおりである。
※ 富士山ドーム(気象観測所)だった建物が建つ、剣が峰です。
朝食の後、目的の「剣が峰」はすぐ目の前である。
お腹を満たした私はあまり苦労することもなくおよそ20分かけて滑りやすい急斜面を登り、9時10分、ついに日本の最高峰である剣が峰に立った!
※ 剣が峰に向かう途中、富士山の大火口が目に入ります。
剣が峰に立ったとき、俄かに雨が降り出した。この雨はけっして涙雨ではない。私には祝福のシャワーだと思えた。
自らの70歳の誕生日を日本最高峰で迎える、これに勝る喜びはないだろう。しかも、海抜〇メートルから、自らの足で4日間かけて歩き、そして登ってきたのだ。
苦しかった4日間の日々が蘇り、喜びは倍加した。
天候に恵まれた4日間とは言い難かった。しかし、それが自然である。自然の厳しさを体感できたのも、今回の4日間の収穫だった。
私にとって忘れがたい大きな勲章を得た思いで感激に浸った剣が峰の頂だった。
ここまで、4日間の私の様子を詳細に語ってきた。
明日からは、Sea to Summit全体を振り返ることにしたい。