天明2(1783)年の冬の海で遭難し、8ヵ月の漂流の末、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した大黒屋光太夫たちは数奇な運命を辿り、およそ10年後に日本へ帰り着いた。その帰国に同行したロシア人ラスクマンの来航が結果として幕府の「開国」の流れが始まる契機だったと講師は結論付けた。
※ 江戸に帰り着いた際の二人の姿である。左が大黒屋光太夫、右が磯吉である。
10月2日(火)夜、道新ぶんぶんクラブと札幌大学の共催による歴史講座が札幌大学を会場に開催され、参加した。
講座は「江戸時代にロシアを見た男 ~大黒屋光太夫を追う~」と題して、札幌大学の川上淳教授と、道新ぶんぶんクラブ事務局長の相原秀起氏による対談形式で大黒屋光太夫の足跡を追うとともに、その影響について語り合うという講座だった。
※ 川上淳札幌大教授です。 ※ 相原秀起道新ぶんぶんクラブ事務局長です。
大黒屋光太夫が遭難、漂流し、数奇な運命を辿ったことは多くの人の知ることだとは思うが、簡単にその軌跡を振り返ってみることにする。
大黒屋光太夫は1783年1月、伊勢の国白子の浦から江戸に紀州米を運ぶため神昌丸で出航した。その時神昌丸には光太夫をはじめとして船員15人と農民1人の計17人が乗り込んだが、その神昌丸の船頭が光太夫だった。
航海中に暴風雨に遭い船は遭難し、漂流する。7ヵ月もの漂流の末、船はアリューシャン列島のアムトチカ島に漂着した。光太夫にとって幸いしたのは、船に大量の米が積んであったことで食料の確保ができたことだったと川上教授は指摘した。
光太夫たちはその後4年間アムトチカ島に滞在するが、そこでありあわせの材料で船を造り、島を脱出してカムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクなどを経由し、イルクーツクに至った。イルクーツクで博物学者のキリル・ラスクマンと出会い、彼の尽力によって当時のロシア国王エカテリーナ二世に謁見し、帰国を許されたのである。
その間、光太夫の仲間たちは、次々と死亡し、17人の内生き残ったのはわずか5人だったが、うち2人はロシア正教に改宗したためイルクーツクに残り、3人が根室に上陸、帰国を果たしたが小市は根室で死亡、光太夫と磯吉の2人だけ江戸へ送られたという。
時に1792(寛政4)年、光太夫らは漂流してからおよそ9年半ぶりに帰国できたということである。
※ 大黒屋光太夫がロシアに書き残した日本地図だそうです。
その江戸まで光太夫たちに付き添ってきたのが、キリル・ラスクマンの子どもであるアダム・ラスクマンだった。
ラスクマンはロシアが日本との交易を望む遣日使節だったのだが、幕府はあれこれと理由を付けて(鎖国祖法観)ロシアの要望を退けた。
しかし、ロシアはそれから12年後の1804年(文化元年)、第2次遣日使節としてニコライ・レザノフを派遣して再び交易交渉をするのだが、幕府は言を左右しながらこれを再び断るのである。
川上教授は、これをもって「幕府の鎖国体制は完成した」と同時にこのことは「開国の流れが始まった」契機だったとまとめられた。
江戸幕府による鎖国体制がどの時点で完成したかについては、帰宅後調べてみたが諸説あるようである。川上教授の説もその一つなのかもしれない。
装備も何も十分でない和船での航海は、当時は命がけのことだったのだろうと想像される。当時の船乗りたちの勇猛果敢な精神には驚かされるし、さらには10年近くにわたり見ず知らずの外国で生き延びた光太夫たちの逞しい精神力には圧倒される思いだ。
そのことが歴史の転換点の一つとなったことも非常に興味深い史実である。
お二人の臨場感あふれるお話は、ワクワクするものであり、歴史を学ぶ面白さを体感させてくれる楽しいひと時だった。
※ この日の掲載写真はいずれもフェブ上から拝借しました。