楽焼の名家・樂家を継ぐ十五代が自らの楽焼茶碗について語った。それは「茶碗はアートか?」という自らの問いについて語るものだった。
※ 本日もまた、私の拙い文章を補うために、ウェブ上から掲載写真の全てをお借りしました。
本日(10月20日)午後、道立近代博物館において現在開催されている「国立京都近代美術館名品展 極と巧 京のかがやき」の関連イベントとして、十五代樂吉左衛門が招かれ講演会を行った。
門外漢の私はその人気に驚いた。午前中の聴講券の配布時には長蛇に列ができ、実際の講演会場も満員状態だった。(定員230人?)
※ 十五代樂吉左エ門です。
長身の十五代樂吉左衛門は静かに語りだした。
氏は自らに問うように、はたまた聴衆に問うように「茶碗はアート(芸術)だろうか?」と問いかけ、そこから氏の茶碗に対する思い、芸術に対する思いを語り始めた。
氏は「アートとは、さまざまな時代の中で、さまざまに価値観は変わっていった」とした。そして氏が思うアートとは「魂がゆさぶられること」ではないかと語った。
その魂がゆさぶられるということは、あくまで主体性の問題であり、自分自身の心の奥から沸き立ってくるものであるとした。
※ 十五代の作品です。
氏は東京芸術大学の彫刻科に学ぶが、芸術に対する疑問や迷いの中で葛藤するのだが、大学卒業後にヨーロッパに遊学する中で出会ったゴヤの画に出合い「魂がゆさぶられるような感動」を体験したという。
さらにミレーやミケランジェロなどの画に対しても同様の感動をおぼえたそうだ。
※ こちらも十五代の作品です。
そして氏は自らを、そうして感動した数々の作家の織物の縦糸、横糸に例え、自らはその織り糸の間にぽっかりできた穴に位置する存在ではないか、と語った。(このあたりの氏の詳細な思いは分からない)
さらに氏は日本語の独自性についても語った、
樂家の初代・長次郎の作品に黒色の楽焼茶碗がある。
長次郎の「黒」が、なぜ黒いのかということは言葉では表現できないものであるが、言葉社会であるヨーロッパではその説明を求められるという。
※ 樂家初代の長次郎の作品です。
しかし、長次郎の楽焼茶碗は言葉にはできない心の奥底の思いが形になったものだと氏は云う。
そして、マルセル・デュシャンという芸術家が男性便器を持ち出して「泉」と作品名を付けて発表し、芸術論争になったことがあったそうだ。その時氏は、認識(言葉)を超えたもの、言葉を超えようとしているデシャンに対して、同じような思いを抱いたという。
※ 芸術論争を引き起こしたデシャンの「泉」という作品です。
十五代は予定時間を超えて、その他にも様々なことを語ってくれたが、自らの作品について言及することはなかった。このあたりは芸術家の一つの矜持なのだろうか?
最後に氏は、自らに、そして私たちに問いかけた「茶碗はアートか?」という問いに対して、「アートに接している」という独特の表現をされた。それは単なる茶碗は工芸の世界であるが、楽焼茶碗は単なる工芸を飛び越しているのではと語る。工芸は日常を超えてはいけないが、十五代が取り組んでいる楽焼茶碗は「日常を超えていく世界」であり「アートに接している」世界だとした。
それは聴いている私からしたら、十五代の謙遜なのではと聴こえてきた。それは十分にアートの世界の作品と門外漢は思うのだが…。