ようやく責任を果たし終えた…、今はそんな気持ちで一杯である。私が属する「めだかの学校」において、仲間内に私の体験を語る標題のトークイベントを今日終えることができた。それほど多い人数の前ではなかつたが、人の前で語ることは緊張するものである。
今日(10月22日)午後、私が所属するシニアの学習グループ「めだかの学校」の10月例会が開催された。
この回では、以前に会員全員が「私の生涯学習を語る」と題して仲間内で発表をしあった結果、もう一度詳しく聴いてみたい話題を選ぶことになった。その結果、私が再度発表することに決まっていたのだ。
その際私が話したことは、私が20代に体験したヨーロッパ・アジアの貧乏旅行についてだった。
※ 帰国後の学園祭における報告会で使用した経路図です。これも50年ぶりの登場でした。
私が話さねばならないことは早くから決まっていたのだが、準備は遅々として進んでいなかった。私としては同じ話題ではあっても、その内容は一度目とは趣を異にしなければならないと考えていた。(一度目は授業形式で発表した)
準備を始める中で、私に一つの女神(?)が現れた。それは拙ブログの10月2日付で「50年前のスライド発見!」と題して投稿したが、旅の中で撮り貯めたスライド写真約1,100枚が発見されたのだ。
それからの準備は多忙を極めた。まず1,100枚のスライド全てに目を通して使えそうな写真を選定していった。何せ50年も眠っていた写真である。色の退化が進んでいた。また、中にはカビが発生していたスライドもあった。その中から120枚ほど選定した。
それと同時に、トーク全体を構想して、旅全体について説明するパワーポイントの作成を進めた。
※ 今回使用した写真の一部を掲載します。写真はノルウェーのフィヨルドです。
当初は、前半にパワーポイントを使って旅全体を説明し、後半にスライド映写を考えていたのだが、検討の結果パワーポイントの中に写真を取り込んでお話しする方法に切り替えた。
パワーポイントの作成は、何度も何度も加除修正を繰り返すためになかなか完成しなかった。ようやく完成版ができたのは昨日21日だった。その標題だけ記すと…。
※ スイス・アイガー北壁を背にした私です。
(1) 題字「私の青い春 ヨーロッパ・アジア貧乏旅行回想録」、(2) 全てはこの一冊から始まった、(3) 旅の概要、(4) 昭和43年、44年の世相、(5) 旅の費用、(6) 昭和43年(1968年)の貨幣価値、(7) 私の貧乏旅行の経路、(8) 北欧の経路、(9) 中欧の経路、(10) 南欧の経路、(11) 中近東の経路、(12) アジアの経路、(13) 旅の衣・食・住、(14) 横浜港からの出港・ナホトカ上陸、(15) モスクワ・スプートニク記念広場、(16) ヒッチハイク、(17) 乗用車購入の失敗、(18) ノルウェーのフィヨルド、(19) ナルヴィクの白夜、(20) アルバイト(8月・9月の二か月間)、(21) ニナサムの下宿先、(22) 二つの裸足、(23) 貧乏旅行の若者に愛の手が、(24) フォルクスワーゲン本社工場、(25) 東ドイツの孤島・西ベルリン、(26) ベルリンの壁、(27) プラハの嘆き、(28) パスポート紛失事件、(29) 道案内を断られた2例、(30) パリの詐欺事件、(31) 至福のとき、グリンデルワルド、(32) フランス・ニースからの撤退、(33) イタリア・ローマに遊ぶ、(34) ポンペイの衝撃、(35) アテネ・パルテノン神殿、(36) まるで階段を転げ落ちるように…、(37) 世界最悪の街・カルカッタ、(38) 旅での思い出の品々、(39) 世界の名所①、(40) 世界の名所②、(41) 世界の名所③、(42) アテネ・アクロポリスの丘を再訪した、(43) 50年間で変わった世界、(44) 私の旅を振り返って、
※ 退色していますが、アテネ・アクロポリスの丘のパルテノン神殿です。
以上44枚の画面を作成した。タイトルだけでは私の旅全体を想像するのは難しいかもしれないが、まあまあイメージできるのでは?
事前の練習は全くできずに本番を迎えたのだが、準備をする中で呻吟を重ねてきたこともあり、なんとか話し終えることができた。
※ アフガニスタン・カブールの市内を歩く人たちです。
聞いてくださった方々は、「もう一度違った角度から話を聴きたい」などというお世辞をいただいた。私もまあまあかな?と振り返っている。
ともかく一件落着で、今はホッとしている。