フナさんは、私に言わせるとスーパーマンである。フナさんは、私から見ると努力の塊のような人である。そんなフナさんと一年ぶりに語り合うことができた敬老の日(9月19日)の夜だった。
※ 二人が語り合ったのは、札幌駅近くの大衆的な居酒屋だった。そこで出た厚焼き玉子です。
オホーツク管内(以前は網走管内と称した)には、北見⇔網走間NHK駅伝大会というローカルな駅伝大会があった。地域の陸上協会がチームを組む本格的なチームから、職場や仲間内で仲間を募り参加するチームなど、レベルは様々だった。
そんな中、小学校の教員だけで参加するチームが二つあった。そのチームとは、私が所属する○○小学校と、フナさんが所属する○○小学校だった。そこで私はフナさんの存在を知った。
その後、私はしばらくランニングを趣味として各種大会に参加していたが、いつしかランニング生活から遠ざかった。しかし、フナさんは違った。その後もずーっとランニングを続け、ベテランの域になってからはフルマラソンなど長距離に取り組むようになっていた。
語り合いの中でフナさんのランニング歴をお聞きしたら、フルマラソンはすでに40回以上の完走、さらにサロマ湖100キロマラソンも8回完走しているという。
そうしたフナさんは、途中挫折してしまった私に言わせると“スーパーマン”なのである。
さらにフナさんは、小学校の校長としての激務の傍ら、教育大学大学院のサテライトに学んで修士論文をものにする、という大変な努力家でもあった。私など、本務を務めるだけで精いっぱいで、とてもとてもフナさんの真似は出来なかった。
その努力は認められて、退職後に某私立大学の教授として招かれ、昨年まで後輩育成に尽力された。
私から見ると、フナさんは努力の塊の人なのである。
フナさんはそのように私とは真逆な人なのだが、同じ管内から退職後に札幌に居を移した者同士として年に一回程度お会いして親交を温めている。
そうする中でフナさんから刺激をいただき、私は私なりに精いっぱい生きていけたら、と思いながら彼との語らいを楽しんだ。
フナさんはまだまだ走り続けるという。私もまた老けることなく、自らの夢を追い続けたいと思っている。
二人は「それにしても…」と一致したことがあった。それは「健康であることへの感謝」だった。
フナさんも私も、健康であればこそ、これまでのような挑戦が、これまでのような生活が、可能であったし、これからも可能であると考えている。
二人は「敬老の日」の夜に、これからも長く健康であり続けることを願い、来年の再会を約して楽しい語らいを終えたのだった。
なんとも奇妙な映画だった。セリフがほとんど存在しないのだ。ある鉄工所に勤める男と、男が寄宿する民宿の食堂の賄婦の女の日常を繰り返し、繰り返し映し続ける映画である。ただ、二人の間には深いかかわりがあった…。
一昨日レポした、北海道立近代美術館の映画会で「狙った恋の落とし方」を観た後の午後、この日2本目の本作を観賞した。
私にとってはなんとも奇妙な映画だった。主人公が勤める鉄工所の職場に入って行くシーンを何度繰り返しただろうか?
主人公の食事の場面を何度繰り返しただろうか?
賄婦の女が卵焼きをするシーンを何度繰り返しただろうか?
おそらく10回は下らないだろう、と思えた。その間、セリフは一切無しなのだ。
このような手法を同一シークエンスのリフレインと称するらしい。
映画の主人公と女の間には、実は深いかかわりがあった。その深いかかわりとは…。
映画を紹介するあらすじを拝借すると、
「ある日、新聞社に勤める順一(小林政広)の14歳の娘が、学校の教室で同級生の少女に刺し殺されるという事件が起きる。すでに妻も病気で亡くしていた彼は仕事も辞め、事件から1年後に北海道の鉄工所で肉体労働の仕事に就く。だが、彼が寝泊まりする民宿で給仕係として働いている加害者の母親、典子(渡辺真起子)と偶然出会い……。」
映画は主人公が働く苫小牧の鉄工所と寄宿する民宿の日常を映し続けるのだが、時間の経過とともに微妙な変化が生まれてくる。まったくと言ってよいほど交流のなかった二人の間に、小さな変化が生まれてきたのだ。
いつも主菜に手を付けず、卵かけごはんを啜り込むだけだった主人公が、ある日から主菜も残さず全て食べるようになったり、女に何か(プリペイドの携帯電話だったようだ)を渡そうとしたり…。しかし、女は男を寄せ付けない。
ところがある時を境に、女の心境にも変化の兆しが見え始める…。
※ この映画の主演であり、監督でもある小林政広さんのなんとも表現しがたい表情です。
映画はプロローグで、二人がそれぞれに事件が起こった後にインタビューに答える場面と、男が映画の最後で発する言葉だけが、セリフとして発せられる。
その最後のセリフをしっかりと聞き分けられなかったが、その言葉が二人のこの後の「愛の予感」を思わせるものだった。
それにしても凡庸な私にはなんとも不思議な映画であり、一度観たくらいでは映画の全てを理解することはできなかったというのが正直な思いである。
映画はスイスのロカルノ映画祭においてグランプリを獲得した映画だそうだが、監督であり、主演の小林政広という監督はこのようなある種実験的な映画を指向する監督のようである。
できればもう一度観て、深く味わってみたい映画だった。
「オケクラフト札幌店2016」はコンチネンタルギャラリー(南1西11)を会場にして9月13~18日までの日程で開催された。札幌展の開催はすでに13年を迎えたという。
私が“オケクラフト”に注目するのは、クラフトマンの中に私の教え子であるI氏がいることが大きい。
18日(日)数年ぶりにI氏に逢うためにコンチネンタルギャラリーに向かった。
たくさんのクラフトマンの作品がそれぞれコーナーを作って展示即売されていた。私はあまり熱心に作品を見る客ではなかった。というのも、私のような年金生活者がお義理で購入できるほど“オケクラフト”は安価なものでなく、私には手の出ないものが主だったからだ。さらには、私にとって“オケクラフト”の主だった器などはすでに購入したり、贈られたりして所持していたからだ。その点では歓迎されざる来場者であった。
I氏は自らの作品のコーナーにいて来場した人たちの接客をしていた。
接客が空いたところでI氏と久しぶりの再会の握手をした。しばらく立ち話をしていたのだが、昼どきとあって彼に時間を取ってもらって近くのカフェで昼食を兼ねて歓談させてもらった。
I氏は50代を迎え、町議を務め、地域のリーダーとして活躍している。「オケクラフト札幌展」においても中心的存在のようだった。
※ この器の価格に注目してください。10,800円という表示が出ています。
彼は私のブログをしっかりとチェックしているようだったが、私もI氏のブログを絶えずチェックしている。その意味では、彼が地域づくりに腐心し、邁進していることをよく知っていた。だから、彼と話をすることは私にとっても関心のあることなので、歓談は楽しいひと時だった。
遠くから彼の活躍にエールを送り続けるよ、と伝えて別れた。
※ こちらのコーヒーカップは4,100円の価格が付いています。
ちょっと主題とは外れてしまった感はあるが、“オケクラフト”はけっして気軽に購入できるような器ではない。しかし、“オケクラフト”に盛られた料理は一味も二味も豊かな食卓を演出してくれる。
開催を知らせるポスターに記されたコピーが能弁にその魅力を伝えてくれている。
「ふとしたフダンを 大好きなフダンにする魔法 クラフトのある暮らしで 幸せなひとときを」
大好きなフダンにするために、木製の器“オケクラフト”をお勧めしたい!
※ 我が家の“オケクラフト”製品を大公開することにします。
※ 私の手持ちのオケクラフトのほとんどはI氏の制作のはずだが、左の器の裏にはI氏制作の印が刻印されていた。
人間の記憶がいかに頼りないものか、ということを知らされた映画だった。というのも、私は2010年にこの映画を一度観ていた。しかし、主演の葛優という男優に見覚えがあるだけで、ストーリーさえ新鮮に映った。私にとっては新しい映画を観る思いの2時間だった。(もっとも、それはお前の記憶力が衰えているからだ、と指摘されたら反論する言葉もないのだが…)
北海道立近代美術館の常設展において現在「北海道美術紀行」展が開催されている。それに併せて、本日(9月17日)から三日間、関連する映画を無料で上映するというニュースをキャッチし、足を運んだ。
ストーリーは、投資で大当たりした冴えない中年男の秦奮(葛優)がインターネットで「婚活」に励む姿を追う。秦奮の前には、株にはまっている人、同性愛者、お墓のセールス、台湾の富豪のわけあり娘、などなどさまざまな未婚女性が現れるが、秦奮は乗り気になれない。そうした中、美人の客室乗務員・梁笑笑(舒淇)が現れる。しかし、梁笑笑は妻子ある男性との不倫に悩んでいた。
秦奮の人柄に引き付けられつつも、不倫男性を忘れられない梁笑笑は、彼との思い出の地・北海道に秦奮と二人で旅立つのだが、彼の地において…。
ということで、北海道、特に東北海道(釧路、阿寒湖、網走、厚岸、斜里、美幌)の各地を旅する。この映画が中国国内でヒットすることによって、北海道は中国人にとって憧れの地となり、中国人の中に北海道旅行ブームが到来したのは記憶に新しい。
主演の秦奮は中年の上、禿頭という見たところは冴えない男という設定で、まるで美女と野獣のカップルが巻き起こすラブコメディーに仕立てられている。
映画は監督が東北海道の景観にほれ込んだということだが、私などから見るとけっして素晴らしい景観が切り取られたとは言い難い。日本人の映像作家ならもっと素晴らしい画面になるのでは、と思われたのだが…。それでも中国人は北海道に憧れたということだ。
映画の中で、台湾人の富豪のわけあり娘役で出演していた女優をどこかで見た女優だなぁ、と思いながら観ていたのだが、帰宅して調べてみると、日本でも活躍したビビアン・スーだった。
映画の日本題名だが「狙った恋の落とし方」という題名は、はたして適切だろうか?題名からは主演の秦奮が美女である梁笑笑を篭絡したかのようなイメージを抱かせるが、けっしてそのようなストーリーではなかった。国内で行われた映画祭では、「誠実なおつき合いができる方のみ」「誠意なる婚活」等の題名が付けられたという。むしろそちらの方がストーリーには近い題名のように思える。そのような題名ではヒットしなかった?
それにしても、6年前に観たはずの映画のストーリーをほぼ忘れていたとは、若干ショックである。そうしたことを自覚することが多くなっていくのだろうか…。
札幌市では現在、 「札幌市景観資産」に指定されているものが2件、 「景観重要建造物」に指定されているものが26件あるということだ。
二つの違いについて、札幌市のHPではよく分からなかったので、直接札幌市の担当者に尋ねてみたところ、「札幌市景観資産」の方は国の「景観法」に基づいて指定した物件に対して、「景観重要建造物」は札幌市の「都市景観条例」に基づいて指定されたもの、との説明を得た。ただし、そのことによる両者の価値の違いはないとの説明だった。
その「札幌市景観資産」に指定されている2件の物件を訪れてみた。
【日本福音ルーテル札幌教会】 中央区南12西12 昭和9(1934)年建造
住宅街に忽然と現れた古典的な石造りの正面が印象的である。昭和9年、フィンランドの宣教師らによって建設されたとのことである。
正面は石造りだが、側面に回ってみると、そこは木造となっていた。教会行事がなければ内部の見学も可、ということだが、事前に許可を得ていないこともあり内部見学はあきらめた。(ガイドブックでは「木造」となっている。石造りに見えた正面も木造??)
【めばえ幼稚園】 中央区南12西12 昭和11(1936)年建造
日本福音ルーテル札幌教会の建物と接続するように建っているのが「めばえ幼稚園」である。クリーム色に塗られた下見板張りの壁と、赤い三角屋根のおしゃれな建物は、木造づくりの柔らかさ、温かさが感じられる建物である。
私が行った時には、玄関にたくさんのベビーカーが並んでおり、若いお母さんたちが幼稚園に集まって、何か行事の準備を手伝っていたのかもしれない。
幼稚舎の前の花壇を囲む緑の柵もかわいらしさ、温かさを感じさせるものだった。
続いて、そこから7ブロックほど離れたところにある「景観重要建造物」に指定されている物件を訪れた。
【杉野目邸】 中央区南19西11 昭和8(1933)年建造
札幌市の中央図書館に近い住宅街の中に、こんもりした樹木に囲まれて杉野目邸は静かに佇んでいた。
この建物は北海道帝国大学の杉野目晴貞教授(後の学長)が自邸として建てたものだそうだ。ハーフティンバー工法というむき出しの柱や梁の白い骨組みが描く模様、窓上部のアーチなど、当時としてかなりハイカラな建物だったと想像される。また、当時としては札幌の住宅では初めて集中暖房と水洗方式が導入されるなど、先進的な住宅だったという。
住宅は現在でもまったく古さを感じす、手入れされた庭など高級感が漂う住宅だった。
さて、今回これまで訪れたことのなかった5件の建造物を見ることができ、私自身としては前記28件のうち、残すところ郊外に建つ5件の倉庫群だけとなった。「めだかの学校」の「歴史的建造物巡り」の対象にはなりにくい(郊外で都心より離れているため)が、私自身の体験の幅を広げるために、できるだけ早く訪れたいと思っている。
今回の成果をどう生かすか?じっくりと企画を練ってみたい。
「めだかの学校」の代表から、来年度の野外学習の企画を提出してほしいとの要請を受け、先日三つほどの企画を提出した。
さらに新たな企画はないものか、と考えたときに「札幌市内の歴史的建造物巡り」をするという案が私の中で浮かんできた。
参考書として少し古い資料になるのだが、札幌市が発行する「れきけん×ぽろたび」という冊子が手元にあった。冊子の意味は「札幌市内の歴史的建造物を訪ねることで、札幌市内を旅しよう!」というような意味だろうか?
その冊子をめくると、訪れたことのある建造物もたくさんあるのだが、まだ訪れていない建造物けっこうあることが判明した。企画するにあたっては、自らの目で確かめたうえでなければ責任ある企画にはならないと考え、本日(9月15日)さっそく未訪問の建造物を訪ねてみた。
【旧藪商事会社ビル(三誠ビル)】 中央区南1西13 大正13(1924)年建造
最初から躓いた。マップを覗きながら近づいたはずなのだが、なかなかビルが見つからない。というのも、ビルは都心近くにあり、私も外観だけは見た記憶があったのだが、周辺をウロウロしても見つからない。「あるいは解体したのか?」と一瞬思った。
疑問を感じつつも、近くの駐車場の管理人に尋ねてみると、「直ぐ近くにあるビルだ」と指さして教えてくれた。
私が見つけられなかったのも無理はない。茶色系の外壁と思っていたビルは、グレー系に塗り替えられていたのだ。
※ ビルの入り口には創業者(?)の銅像が…。そして入居者一覧が…。
※ レトロ感漂う廊下です。
ビルは三階建てであるが、飲食店や法律事務所、あるいは一般の会社事務所などが入る雑居ビルであった。
それぞれの店や事務所などには入れないが、廊下は見ることができた。廊下にはレトロ感が漂っていたが、現在も立派に現役で機能していることを感じることができた。壁を塗り替えてしまったのはちょっと残念?
※ ガイドブックに載っていた壁の色です。これではちょっと探せませんよねぇ…。
【永井邸】 中央区南2西12 昭和6(1931)年建造
三誠ビルからほど近い都心の一等地(?)周りを鉄筋のビルに囲まれた中に、凛とした木造の建物が建っていた。北海道帝国大学医学部教授の永井一夫氏の邸宅として建てられたものだそうだ。現在の手入れが行き届いていて住宅として使用されているため、敷地外から外観のみを観覧することができた。
【Studio SKIPPER】 中央区南11西13
続いて、昭和9年建造の「日本福音ルーテル札幌教会」(明日レポします)に向かっている時だった。派手なピンクの壁をしているが、よく見るとかなり歴史を感ずる建物が目に入った。冊子の中に入っている建造物ではないが、一応チェックすることにした。
壁には店名の「SKIPPER」とともに業種の案内が出ていたが、それによると「Interior Design & Produbt Antisue Parts Remake Furniture Import Fabric」と描かれていた。どうやら古いヨーロッパ調の家具やインテリア品を輸入・販売したり、修繕したりする業種のようだ。(英語オンリーの案内でなくとも良いのでは、とも思うのだが…)
冊子に掲載されている建造物は札幌市の「都市景観重要建築物」に指定されている建物のようである。「SKIPPER」のように壁を派手に塗り替えたりすると、その対象にはならないということかもしれない。
それにしても、かなりの年数が経った建物と見たのだが、果たして???
さて、私の「札幌市内の歴史的建造物巡り」の企画はどのように結実するのだろうか?
私にもまだ見通しは立っていない…。
荒々しく首都東京や日本各地を暴れまわるという印象が強い“ゴジラ”だが、映画として成立させる上では、綿密な計画と細密画のようなデザインや設計図が背景にあることを理解することができた。
北海道立近代美術館において9月9日より「ゴジラ展」が始まった。ゴジラに特別の関心があるわけではないが、公開中の映画「シン・ゴジラ」と美術館の「ゴジラ展」の相乗効果に踊らされて、映画に続いて展覧会も見てみることにした。
※ 展示されていた中で撮影を許された一つ。1995年制作の第22代のゴジラです。
平日だと混雑が少ないだろうと13日(火)の午後に入館してみたが、目論見どおりそれほど混雑しない中でゆっくりと観覧することができた。
ゴジラ映画は1954(昭和29)年に第1作目が登場して以来、公開中の「シン・ゴジラ」が29作目だそうだ。今回の「ゴジラ展」では、1作目から28作目(2004年制作)までの歴代のゴジラの顔と姿を写真により紹介するところから展覧会は始まっていた。
※ こちらはHPから拝借した第20作目に登場したメカゴジラです。
そしてゴジラ誕生の経緯、特にゴジラが生み出されるまでの過程が写真や記録文とともに詳細に紹介されたり、ゴジラ映画の代名詞でもある特撮映画の舞台裏が事細かに紹介されたりしていた。
特に私が感心したのは、怪獣やメカのデザイン画、撮影用ミニュチュアセットの図面などが、非常に緻密に描かれていたことだ。作者の経歴を見ると、それぞれが美大などで学んだ専門家であったことはいうまでもない。
展示されていたゴジラや怪獣のスーツ(ぬいぐるみ、着ぐるみ)が等身大であるのに、映画においては数十メートルもの巨大な怪獣に見せるには、日本が誇る特撮技術に拠るところが大きいことが良く理解できた。
※ こちらも撮影を許されたメカゴジラと戦った第20代のゴジラです。(不確定ですが…)
マニアでない私は全ての展示を事細かに観覧するだけの忍耐力に欠け、十分に観賞できたとはけっして言えない。しかし、「美術館が展示をすると、こうなるのか」というくらい学術的にも貴重な展示だったのではないかと思えた「ゴジラ展」だった。
※ 展示会場の外に「シン・ゴジラ」の撮影に使われた東京駅のミニュチュアセットが展示されていました。
※ 富士市より送付されてきた「富士山登山ルート3776挑戦達成証」です。
「富士山 Sea to Summit」に挑んだとき、要所においてある4ヶ所のスタンプを押印して、さらには剣が峰に立つ写真を添えて富士市役所に届ける「スタンプラリー」に参加していたことは既に述べていた。
スタンプラリーそのものは大して重視していたものではなく、私の中では「まあ、そうした企画があるのなら乗りましょうか?」という程度のものだった。
この「ルート3776」は以前にも述べたが、スタート地点が二か所ある。したがって、スタンプは合計4つのスタンプが押印されていればOKなのだが、私はスタート前日にもう一つのスタート地点にも立っていたので、合計5つのスタンプを押印して届けた。(だからといってメリットは何もない)
スタンプ帳には達成バッジ(FINSHERバッジ)GETまでの道のりが次のように記されていた。
1.「ルート3776スタンプラリー」シートをGETする。
2.各ポイントでシートにスタンプを押す。
3.富士山頂で記念写真を撮影し、シートに貼付する。
4.シートを貼付テープでとめ、切手を貼り、投函する。
5.富士市で「ルート3776スタンプラリー」のクリアを認定し、認定者には達成バッジをプレゼント!!
※ 挑戦計画書を提出すると、達成バッジと挑戦達成証をダブルでGETすることができます。
となっていた。大して重視していなかったと言いながら、いざ全てのスタンプの押印ができてしまうと、「これはぜひとも戴きたい」という思いが募ってきて、帰宅後写真をプリンとすると、直ぐに富士市役所の方に送付したのだった。
※ 富士市役所に送り届けたスタンプ帳の裏表です。
送られてきた達成証はパソコンで作成した簡素なものであり、FINSHERバッジもよくある類のバッジでしかなかった。しかし、私にとってはそのような簡素なものでも、苦戦した4日間を思い出す縁となるべく貴重な記念品である。大切に保管したい。
※ 送られてきたFINSHERバッジです。実際には3×1.5cmの小さなものです。
ところで、達成証の私の名前の横に「第28-052号」と記されていた。この意味するところは、平成28年度において52人目の達成証発行番号のことだろうか? だとすると、意外と少ない気もするのだが…。
こうした達成証などに意味を見出さない人もいるのだろうが、それにしても少ない数字だなぁ…。
私はもっと多くの人が挑戦しているのではないかと考えていたが、4日間も苦労して富士山に登ろうなどと考える人はそれほど多くないということだろうか?……。
キタキツネの生態を擬人化させたストーリーで厳しくも美しい自然を描いた映画は、公開当時大ヒットしたという。原作者の竹田津実氏(映画では動物監督)とは、同じ町に住んでいたこともあり、特別の親近感をもって観た映画だった。
9月12日(月)午後、「めだかの学校」の「映画の中の北海道」は1978(昭和53)年に公開された「キタキツネ物語」が取り上げられた。
実は「キタキツネ物語」には、2作ある。一つは1978年に公開されたオリジナル版である。もう一つはオリジナル版から35年後の2013年にリニューアル版として制作・公開されたものがある。
今回私が観たのはオリジナル版であるが、私は両方ともこれまでに観たことがあった。
この映画を解説書によってはドキュメンタリーと呼んでいるが、完全なドキュメンタリーとは言えないだろう。また、完全なドキュメンタリーだったとしたら230万人も動員する大ヒット映画になったかは疑問である。
この映画の大ヒットの要因は、キタキツネの生態を追い続けた膨大なフイルムを編集し、キツネたちを擬人化させたうえで、一つの物語として構成したことが大ヒットの要因だと私は思う。
映画が誕生した背景には、オホーツク管内小清水町で獣医師をしていた竹田津実氏の長年にわたるキタキツネの生態観察がある。
私は竹田津氏が獣医師をしていた小清水町に8年間在住した経験があった。そのときすでに「キタキツネ物語」は公開され、竹田津氏は地元において時の人となっていた。
氏は地元でも気軽に講演をしてくれ、私も何度か聴く機会を得た。氏のユーモアに富んだお話から、キタキツネのみならず、さまざまな野生動物の生態をお聴きすることができ、氏の野生生物に対する慈愛の深さを知ることができた。
お話の中で、映画の中で罠にはまって血を流したり、銃で撃たれてキツネが死んだりするシーンは、全て偽装であり、キツネにはまったく危害を与えていないということだった。
また、撮影には竹田津氏が長年の観察から得たキツネの習性を利用して撮影したところがかなりあったという。
ここまで書くと、竹田津氏がこの映画に関わった理由が見えてくる。氏は単にキタキツネの生態を美しく描くだけではなく、野生生物のおかれている厳しい現実、野生生物のおける親子愛などを描くことによって、野生生物を慈しむ気持ちを観る人の中に育ててほしい、という切なる思いが背景にあることが分かってくる。
映画公開から40年近く経った今観ても、少しも色あせることなく制作意図の素晴らしさが伝わってくる映画だった。
※ 3枚折りの立派なまつりの案内パンフレット
「お散歩まつり」…、ネーミングがいいではないか! ネーミングからもほのぼの感が伝わってくるようだ。9月11日(日)の今日、爽やかに晴れ上がった秋空のもと、「ミニ大通お散歩まつり」が行われた。
※ ミニ大通りの一番はずれ、17丁目の入り口に掲げられたまつりのアーチ?
札幌市の北大植物園の横から西に伸びる北4条通り沿いに長さ1キロにも満たないが遊歩道が設けられている。その遊歩道が通称「ミニ大通」と称されている通りである。
ここで7年前から周辺住民の手づくりによる「ミニ大通お散歩まつり」が始まった。私も当初はおまつりのお手伝いをしていたのだが、いろいろないきさつから手を引いてしまいもう5年も経っていた。
某日、知り合いとなっていたお散歩まつりの実行委員長さんと街中で偶然お会いし、まつりに来ることを勧められた。
久しぶりに晴れ上がったミニ大通りに足を運んでみた。
好天も手伝い、多くの人たちがそぞろ歩きを楽しんでいた。
沿道にはさまざまな店や催し物が並んでいた。
屋台フードコーナー、フリーマーケット、竹灯りエリア、マルシェ会場キッチンカー、福祉バザー会場、イベント会場、樹上展、ちびっ子ゾーン、チャリティ抽選会などなど…。
手づくり感いっぱいのさまざまな催しが展開されていた。
地域の住民、沿道のお店、町内会などなど、多くの人の繋がりがまつりを大きく、確かなものに成長させていたように感じた。
これは地域のまつりとして、これからも長く続いていくに違いないと思わせてくれた。
以下、まつりの様子を切り取った数枚の写真を羅列することにします。
※ それでは、ミニ大通りお散歩まつりの写真館、はじまりはじまり…。
※ ここは食品やワインを販売していたようだ。
※ こちらは取れたて野菜の販売かな?
※ ちょうど昼どき、お寺の前の飲食コーナーは満員御礼のようです。
※ こちらはご存知フリーマーケットのコーナーです。
※ ちびっ子ソーンも大賑わいです。
※ まつり運営本部がおかれた会場は、イベント会場として使用されていました。
※ そのイベント会場ではフラダンスが…、そのほかさまざまなパフォーマーが登場したようです。
※ セミプロ?の弾き語りです。ハイトーンボイスが印象的でした。
※ 地元の高校生たちがミニ大通の木を利用した樹上展を行っていました。
※ その作品の一つですが、はっきり写っていませんねぇ…。
※ こちらは地元の小学生がTシャツにデザインしたものを展示していました。
※ 竹を素材にした竹灯りのゾーンです。夜にろうそくを灯したところを見たいですね。
※ 最後は龍谷学園高校の生徒が学園祭に制作した熊本城が特別展示されました。なかなかの力作です。下の写真も。