鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

落語・・・。

2006-10-05 23:23:14 | お知らせ

 この写真は例によって広瀬川の堤防の花です。名前はない、ではなく、知りません。

 

  山形釣り情報(YFN net)・・・「時期が時期だけに、今シーズンはほぼ終了と考えていいでしょう。なお、小国川での情報ですが、落ち鮎は年配の人も記憶にないほど数多いということです。来年も豊漁が期待できるのではないかと思います。」 

 出てしまった、遂に出てしまった、シーズン終了と。引導を渡されてしまいました。まだ、大丈夫かもという言葉が欲しかったのですが・・・・。

 

 先月になりますが、30日の朝日新聞。「上方落語に悲願の定席」「その名も『繁昌亭』大阪で80年ぶり」「市民の寄付で建設 小ぶり・身近な舞台」 上方落語界の悲願とも言われていた落語の定席「天満天神繁昌亭」。できてよかったと思います。

  この頃は(何十年もというべきか)ラジオやテレビで落語を聞かせるということはなくなりました。その昔、ラジオではよく落語をやっていたと思いますが。もちろん漫才もありましたが、両方セットというのが多かったかも。個人的には、落語も(上方も江戸も)漫才も大好きです。

 

 漫才コンビとしては、Wけんじ、中田ダイマル・ラケット・獅子てんや・わんや、もっといたのですが、思い出せません。やすし・きよし、ツービート、B&B、とかはその後ですね。

 今回上方落語界としては、80年ぶりに定席ができたということですが、実は私が関西にいたときに、短期間でしたが落語の定席ができていたことがあります。30余年前のことです。

 

 その頃の上方落語会の大御所は、桂米朝、笑福亭松鶴(しょかく)の二人でした。(露の五郎という艶のある噺家もいたなあ。)この二人が中心となって、上方落語をなんとか復興しようといろいろ努力していました。

 そして、南に、難波に教会を利用して「島之内寄席」を開設したのです。もちろん毎日開設ということではなく、1週間に1回くらいだったかな(もっと間隔があったかも)、若手からベテランまでが出て、熱演していました。

 今上方落語界で中心的に活躍している噺家連中は、このときは前座も前座を担当していました。桂べかことか。桂三枝だって今のようには売れてはいませんでした。

 だけど、ベテランから初心者?までが一丸となって何とかして上方落語の復興、その前に火を消さないようにしようと皆が頑張っていました。それがひしひしと伝わってきたと記憶しています。

 教会を使っての落語だから、広くはないし、音響もよくはなかったですが、それを補って余りある熱気が、演じる人からも聞いている人からも感じられました。

 平日の夜に開設したのではないでしょうか。会社を出てから、地下鉄御堂筋線でミナミ、難波へ行き、落語を聴いて、地下鉄、阪神電車に乗って西宮の甲子園まで帰ってきました。そういうこともありました。

 

 阪神と阪急が統合されることになりましたが、これについてはまた別に思い出を書いてみようかなと思っています。


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