鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

もう少しの辛抱です!

2020-08-02 13:49:43 | 思いつくまま

今日も広瀬川はとってもいい感じです。いい川相をしています。今朝方澱橋の上流にガラガケの人が一人入っていました。牛越橋の下流には、遠目ですが、4人くらいの人の姿が車越しに見えました。

 

でも、きょうはまだ早いです。みなさんを川に入らせようとしないためにこんなことを言っているのではないです。今朝もそうですが、川底がきれいすぎます。どこを歩いても滑りそうにありません。

 

水も冷たいですが、川底の石にまだほとんどまったく苔はついていません。いま掛かったとしても先月私が掛けたような白い細い鮎、追星のない鮎でしょう。いかにも真夏の元気いっぱいの鮎らしい鮎になるにはもう少しかかりそうです。

 

 (トランペットの練習です。)

あしたはいってみたくなりますが、まだちょっと早いだろうなあ。明後日か明々後日なら、このままの天気が続くのであれば、お待たせいたしました!どうぞ川にお入りください!心行くまで鮎と戯れてください!と言えるのではないかと思います。

  

思うのですが、きのう気がつきました。きのうから8月です、当たり前ですが。ということは広瀬川は投網漁が解禁ということです。そうなのです、下流域から牛越橋までは7月いっぱいは投網禁止なのです。でも投網禁止はもう終わってしまったのです。

  

投網グループがいつ川に入ってくるのか、たぶん朝早くでしょうね、あまり目立たないうちに投網を打(ぶ)ってやろうと普通なら思うでしょう。竿釣りの人が多くなったときに、ところにやってきて投網を打つというのはそれなりに勇気のいることではないかと思います。

でも3密やソーシャルディスタンスを守ればもう投網漁はOKなのです。竿釣りのみなさんは、そのことを重々頭に入れておいてくださいませませ。

今年の我が家はイチジクが豊作のようでした。大きなイチジクがいっぱい目に入っていまして、この分ではおいしい花イチジクが食べられるなあと楽しみにていたのですが、まだ食べられていません。というか正確には私よりも先に食べるものがいるのです。

 

何だともいますか? ハクビシン?そうです、家族もそう思っていましたが、この前たまたま目撃しました、犯人は盗人はカラスだったのです。カラスがイチジクの実を食べる様子は結構迫力があるものです。音もすごいし。

 

それでうちの奥様はカラスの食べられるよりはと、早めに収穫して、つまり少々固いうちにとってしまっています。それで1回目のイチジクの甘露煮をつくりました。佐藤付けにすれば甘くはなるのですが、やはり熟した生のイチジクを食べたい!生食したい!ので、今朝方奥様がとっておいたイチジクを召し上がってみました。

 

             

うーんはやり早い、甘くない、ほとんど味がない、熟したイチジクはこんなものじゃないと思うと情けなくなりますね。今年は生食用のイチジクは無理で、甘露煮用のイチジクのみということになるかもしれません。それでもありがたいことですがね。

 

去年はカナブンの猛襲撃を受けて、イチジクの枝はかなり打撃を受けましたが、それでもそこそこ実ってくれています。ありがたいことです。今年はカミキリムシを2匹捕まえています。今年はカミキリムシが多くなるのかもしれません。

アホノマスク、さすがの長州の独裁者ももう限界ですか?!ここにきてアホノマスクをやめたようです。もう自分でもあほらしくて耐えきれない、やっていられないと思ったのでしょうね。周りに誰も支援者がいませんから。

あれだけ忖度官僚、忖度大臣が多いのに、それでも”マスク”については追従する輩はいなかった。そんなマスクを8000万枚も追加発注して介護施設等に配ろうとしていたのですから、国民を愚弄するにもほどがある。

           

それにしても、あのアホノマスク、仕様を何とかしようと言う、またする人材がいなかったのでしょうかね。「雲霞のごとく」いるはずの人材も実態はそんなものなのでしょう。所詮は裸の王様でしょうから。なんでもこの頃は菅官房長官ではなくて実質的な菅内閣総理大臣の菅のようですね。周辺はそんな対応をしているそうですね。(msnニュース)

給食マスクともお別れのようです。

給食というと、今朝の新聞の「Reライフ」は給食を特集していました。アンケートに836人が回答したそうです。給食は好きでしたか?はい=506人、いいえ=283人でした。61%の人が好きだったと答えています。

 

心に残っているメニューとしては;鯨カツ・鯨の竜田揚げ、こっぺぱん、揚げパン、ソフト麺、カレーライス、フルーツポンチ・冷凍ミカン、が上がっています。

 

私にも小学校時代があって、昭和29年に一年生となりました。周りはガキばかり、最初は10数クラスもありましたし、講堂(体育館ではないです)も仕切って使っていました。そのことを書くとまた長くなるので、今回は給食だけに絞って思い出したことを書いていこうかなと思っています。

 

給食はいつから出てきたのか、正確には思い出せませんが、当時は単独調理校方式ですから、温かい給食を食べられたのは覚えています。特に何がうまかったとかまずかったとかは、食べ物自体ではなかったようです。食べられるだけで幸せだったのかもしれません。

 

家では麦飯でしたから、学校でコッペパンを食べるのはうまかったのかもしれません。でも高学年には食パンになりましたね。給食の飲み物は確かに後半は牛乳パックもあったように記憶しますが、それよりもなによりもミルクというか”脱脂粉乳”が一番強烈な思い出として残っています。

 

当時の食器は軽い金属製(アルミ?)で、鉄のフォークもついていました。なぜ覚えているか?そのフォークを使って、平べったい金属の皿に傷をつけたりしていたからです。いわば温泉マークのようにカーブをつけていました。あとで叱られました、男の横山先生です。

   

小学校の最初の給食の主食は、うどんだったように記憶しています。とろみのついた何かの具の入っているうどんだったと思うなあ~。アンケートのように鯨は確かによく出てきたように感じますし、自宅でもよく食べさせられました。

 

貧乏人にはちょうどいいおかずだったのですよ。鯨の肉にも上中下があったのでしょう、我が家で食べるクジラの肉は筋がいっぱい入っていて口では食いちぎれなかったです、はい。でも当時はクジラの肉は貴重な蛋白源だったのですよね。我が家では麦飯と鯨の肉が主食?肉は少なく魚が主体だったのは確かです。川魚もよく食べましたし。オイカワなんてフライにしたりしてよく食べました。(大きくなって食べた鯨の尾肉、これは美味かった!!)

  

この前小学校での話し合いのとき、給食1回分の給食費は267円だったかな、22日とするとっには6000円未満ですか。私が小学校2年のときの給食費は月に280円だったかなあ。なぜ覚えているか?それは給食費を使い込んでしまったからです。

何に使ったか?我々が名付けていたのは”ぱった”、こと標準語では”めんこ”でしょうか、そのぱったを買うためでした。どこで買ったかも覚えています。もちろん今はとっくにその店はなくなっていますが、むかしの一銭店屋みたいな店です。親と先生からは強く叱られました。

ところで、学校というと、まだ小学校の先生の名前が言えます。長谷百合先生、藤原(てい?)先生、佐々木恵美子先生、横山文雄先生、高野栄先生(5年と6年)。男が横山、高野の両名です。高野先生は陸軍か海軍のパイロットだったようです。

なかでも一番好きだった先生は3年のときの佐々木先生ですね。すらりと背も高く、きれいだったなあ、パーマをかけ左右に分けていたのではなかったか? 卒業後友だちと近かったこともあり、佐々木先生のうちに遊びに行ったことがありました。まだご健在、生きているのであれば、会いたいですね。


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