鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

広島原爆の日

2020-08-06 17:16:03 | 思いつくまま

        

      「序」

               峠 三吉

ちちをかえせ ははをかえせ

としよりをかえせ

こどもをかえせ

 

わたしをかえせ わたしにつながる

にんげんをかえせ

 

にんげんの にんげんのよのあるかぎり

くずれぬへいわを

へいわをかえせ

     「水ヲ下サイ」

              原 民喜

水ヲ下サイ

アア 水ヲ下サイ

ノマシテ下サイ

死ンダハウガ マシデ

死ンダハウガ

アア

タスケテ タスケテ

水ヲ

水ヲ

ドウカ

ドナタカ 

  オーオーオーオー

  オーオーオーオー

 

天ガ裂ケ

街ガ無クナリ

川ガ

ナガレテヰル

  オーオーオーオー

  オーオーオーオー

 

夜ガクル

夜ガクル

ヒカラビタ眼ニ

タダレタ唇ニ

ヒリヒリ灼ケテ

フラフラノ

コノ メチヤクチアヤノ

顔ノ

ノンゲンノウメキ

ニンゲンノ

  

      「原爆」

                山代 鈴子(中学二年)

私は七つ、妹は三つ、

そしたお父さんは

北支のどこかで

戦争をしているということで、

ずいぶん 前からたよりがなかった。

 

母は

あの日

きんろうほうしで

町に きょうせいたちのきのあとしまつに

出ていた。

 

私は、

家の近くの会館で、皆んなと勉強していた。

 

午前八時十五分

その時

原爆はうつくしいひかりにみちて

かがやきにあふれて

おちてきた。

 

窓ガラスがやぶれて

床にちらばっているなかを

私は家にかけて帰った

なにかしらないが

おそろしいものにおそおわれて

たまらなく母のふところが

こいしかったからだとおぼえている

 

家では

姉と妹が

へしまがった天井の下で

ほこりだらけのたたみの上にだきあって

すわっていた

 

それから二時間

全身が焼けただれて

息もたえだえになって

母が帰ってきた。

父がいなくて一家の柱の

たった一人の私達の

母が、

 

姉は

毎日 どくだみをせんじて 母にのませ

うじのわいている

指のまたのかさぶたをうがしては、

おしろい粉をふった。

 

そして それから七年。

いろんなことがあったけれど

私は十三、妹は九つ、

父は戦争で死んでしまって帰らなかったが、

母は

今日も。あの原爆で不自由な体で

くわをふるっている。

 

原爆はいやだ

それにもまして

父をころし

原爆をおとした

戦争はいやだ。

 

                     (合掌)

掲載させていただいた詩三篇は、「第二楽章 ヒロシマの風」(吉永小百合編・男鹿和雄画 角川文庫 平成十二年発行)からです。


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