鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

雨が欲しい、広瀬川

2020-08-24 13:46:25 | 思いつくまま

おとといきのうと仙台では最高気温は30度を切り、29.9度と29.7度となっています。でもまあほとんど30度といっても間違いじゃないですね。きょうは、今は午後1時50分ですが、目下の最高気温は30.3度で、午前11時21分の記録となっています。

       

さすがにもう35度前後の気温はなくなったのではないかとおもうのですが、どうでしょうか。自然は人間のすきを突いてくるからなあ。広瀬川も小国川のような水量があり(それでも減水気味ですが)、川に中を歩くと鮎が散らばる、逃げ回るという現象がみられるような川であったら最高なのに・・・・。

絶対にありえないことを考えても、願っても詮無いことですが、そこは煩悩の塊のような私としてはついつい祈ってしまいます。広瀬川は雨が欲しい!!雨らしい雨はさっぱり降りません。降るところにはドバっと被害をもたらすくらい局地的に降っているのに。

      

このままもしもいったらもう広瀬川はお仕舞ですね。ひと雨ふた雨ほしいところです。川を、川の中に棲む魚を生き返らせてほしいものです。

 

そういえばきのう元気者の集まりのようなことがありました。澱橋の上下を使ってのカヌーです。いまはどういうのか知りませんが、仙台カヌー協会とかいうカヌーの団体があったような気がします。きのう澱橋左岸に車がいっぱい集まっていました。

 

 

 

 

ずいぶん小型のカヌーのようですが、気持ちがいいでしょうね。

 

たくさんの人が漕ぎ出すのを撮りたかったのですが、なかなか入らなかったので、一人だけの写真となりました。過去には上流域からカヌーが複数流れてきたことがあったですね。釣りをしているところにやってきて、恐縮していたことがありました。

 

これが昔々経験した最上川での船下りの船と鮎釣り師の出会いとかだったら絵になったのですがねえ。船頭さんの最上川舟歌が聞こえるくらいお互いの距離が近くなり、遊覧船観客と手を振りあうなんてもう夢物語そのものです。

 

 

今思い出しました。22日に小国川へ今年初めて行ったのですが、そのときに若いお父さんと男の子の親子連れが投網のようなものを持って川にやってきました。経壇原でしたが、ここは投網OKなのですかと聞いたら、一関大橋の上流は8月からOKとか言っていました。

 

しかし、投網とばかり思っていたのですが、網の操作を見て、これはもしかして刺し網というやつかと思い、聞いたら、そうだとのこと。この刺し網でおとりとなる鮎を捕ってから、友釣りをしようと思っていると言っていました。

 

その使い方が面白い?のです。大きな石を中心にして、そのまわりを刺し網でぐるっと一回りして、その円の中にいる魚を捕まえようというものでした。円周は10メートルくらいはあったかな。刺し網と言えば、流れに90度に渡して鮎を捕獲するものとばかり思っていました。

 

でも、掛かるのは小さい鮎ばかりで、それも網の目から逃げていくようなものばかりと笑っていました。

 

 

そういえば、22日は76年前に沖縄から本土への子どもたち中心のの疎開船 ”対馬丸” が米軍の潜水艦により魚雷攻撃を受けて沈没した日でした。生き残った引率の教師は自責の念から長いこと沈黙を守ってきましたが、晩年に事件を語り始め、短歌を作っていたそうです。朝日新聞に大きな記事が載りました。

新崎(旧姓・宮城)美津子さんです。事件当時(1944年)24歳だったそうです。新聞に紹介された短歌をみなさんと共有したいと思います。

『子供等は蕾のままに散りゆけり嗚呼満開の桜に思う』

『さんざめく子等を乗せたる対馬丸我が目の前で魚雷命中す』

『親を呼び師を呼び続くるいとし子の花かんばせの命の惜しき』

『いつまでも消ゆることなき少女らの声「宮城先生…」と細りゆく声』

『風化させじ短き命の尊さを語り部となり世にし伝えん』

乗っていた1800人のうち1500人が死亡しています。大半は子どもです。でも戦中はもとより戦後も詳しい調査はされなかったとか。戦中は憲兵隊により箝口令が敷かれ、口外すると非国民扱いされたとか。


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