鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

長崎原爆の日

2020-08-09 14:11:21 | 思いつくまま

  

どうしてもこの時期になると、気分的には暗くなります。心になんか重苦しいものが沈んでいるようで、気持ちは晴れません。でもまあそれでいいと思っています。すべては75年前に遡るのですが、沖縄戦が住民を巻き込んでの惨憺たる、悲惨極まる敗北となった後の、ヒロシマへの、ニンゲンを殺傷するための世界初の原爆投下、そしてソ連軍の侵略、略奪、最後はナガサキへの2度目の原爆投下。よりによってウランとプルトニウム、両方の原爆を落とすのですから。

 

   今月に入ってNHKスペシャルで「沖縄 出口無き戦場」という番組が放送されました。沖縄戦は最後の1か月でたくさんの沖縄住民が死ぬことになったのです。これも日本軍とともに行動をともしたから、当然日本軍は友軍であり住民を守ってくれるものとばかり信じていたから。

しかしながら現実はアメリカ軍の攻撃による死亡のほかに友軍による殺人(殺戮)も加わり、さらには住民同士の集団自決まで起きてしまいました。一部の住民の指導者の中には、南部に逃げるのではなくて、北部に逃げようとして逃げて助かったということもあったようです。ほんの少しだけ救われます。

 

   ついこの前は日本映画専門チャンネルですか、「沖縄スパイ戦史」という映画が放映されました。これは75年前に住民が沖縄戦で経験したことを編集したドキュメンタリー映画ですが、何とも重い映画でした。でも、生きているものとしてやはりきちんと見ておかないといけないと思い、見続けました。

沖縄みたいに小さい島では、住民の協力がないと米軍とは戦えません。しかし、そうなると日本軍の情報等も住民に伝わるわけで、日本軍としては、情報を知っている民間人に米軍に通報されたら困るわけです。

住民はなくてはならないけれど、邪魔でもあり、いざという時にはスパイとして米軍に通報されるかわからない厄介な存在(基本的に日本軍は住民を信用していなかったし、利用するだけのものという意識だったから、いとも簡単に住民を銃殺や斬殺できた)でもあり、住民には米軍につかまってもらっては困るわけです。

戦うのは軍隊、住民は足手まといということで食料を分捕ったり、ガマの外に放り出したり平気でするわけです。そして最後には笑ってしまいますが、戦いの邪魔だからと住民を自決させておいて、ガマから出しておいて、自分たちは””投降””したりしているのです。住民には投降を厳禁しておきながらです。

軍隊があるから基地が必要になる。基地があるからいざという時には攻撃されるのだと、生き残った住民の誰かが言っていましたが、まさにその通りです。いざという時には自分たちを守らないのです、国を守るのです、とかも言っていたな。

 

   そして、きょうはきのう放送されたNHKの番組を見ました。ちょうど11時からの長崎の原爆忌にかぶさってしまいましたが、「ETV特集 焼き場に立つ少年  長崎・原爆孤児の戦後」という番組です。こちらも言葉を挟むことなく、その余地がないくらい内容の濃い、静かではあるが迫力のある番組内容でした。

すでに死んでいる小さい弟をしっかりと背負って、はだしで焼き場に立つ長崎の一人の少年。この写真を撮影したのは米軍の従軍カメラマン ジョー・オダネル(83歳で亡くなっています)という人。

            

番組はこの一枚の写真から、いろいろな手法を駆使して、カラー化したり、またいろんな人に見てもらったりして、撮影された日時を割り出そうとしたり、場所を特定しようとします。ついつい引き寄せられてしまいました。日時は1945年10月15日か17日、または22日ということでした。場所も長崎本線の線路沿いのところではないかとまで迫りました。

この番組の骨子は原爆孤児の戦後です。戦災孤児は、都市の空襲により全国的に生まれています。そう書くとどうしても野坂昭如の「火垂るの墓」を思い出してしまいます。今は大津波大地震等の震災孤児も生まれています。

この少年は、背負っていた弟を荼毘に付すとそのまま後ろを振り返らずにまっすぐ去って行ったとカメラマンは言っています。この眼差し、噛んで何かをこらえている唇、直立不動の姿勢、指までまっすぐに伸びています、そしてはだし。

背負われてぐったりしている小さい子ども。何事も先入観がなければ、何とすやすやとよく眠っていることだろうと思ってもおかしくないくらいにきれいな可愛い顔をしています。それがなおのこと口に出せない悲しみを漂わせています。

 

両親を失った子どもたちは、親せきに預けられたりしたわけですが、そこで言い尽くせない苦労をしたようです。辛い辛い思いをしてきたようで、よくぞ生き抜いてくれましたとこちらがお礼を言いたくなるくらいです。

牛舎に寝泊まりさせられたとかいっていました。中でも一番辛かったのは、空腹とかではなく、すでに亡くなった両親が何かにつけ悪く言われることだったそうです。子どもの立場でどうしたらいいですか?と言われたらあなたならどう答えますか。

でも、この番組の最後に少し救いがありました。カメラマンのジョーが、亡くなる前にアメリカ人からインタビューを受けていたのです。2003年7月7日です。

Q:アメリカ人として長崎を歩いてどう思ったか?

A:(原爆は)間違いだったと思った。

Q:原爆は、アメリカ人や日本人の多くの人の命を救ったという人に対しては?

A:(原爆は)何も救わなかった。罪のない人々を殺しただけ。我々はおばあさんやおじいさん、子どもを殺した。

  

Q:無意味な虐殺だと?

A:そうだ。

  

 

                                合掌

 

 

 


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