津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(84)寛永元年・日帳

2019-11-24 12:49:36 | 創作

          (寛永元年八月)廿七日

         |                          
         |     廿七日 両人詰 朝ハ曇
         |      (茸)
三斎へ松茸献上  |一、田川ゟ松竹弐本参候、林與兵衛方ゟ、すくニ中津へ被遣候由申候て、與兵衛者ニ被渡候事
         |          (吉重)     (正重)
魚住正重遺物献上 |一、沢村大学登城、魚住加介ゟ進上候鉄炮壱丁七匁玉、鞍壱口くろぬり十文字ノ金巻絵、右二色持
         |             (安場)  (三上)
         |  せ被参候事、但、鉄炮ハ仁左衛門・宗於ニ被渡候、鞍ハ嶋田孫兵衛ニ被相渡候
         |一、今度江戸ゟ罷下候村田忠右衛門、則中津ヘノ御書持参仕、罷帰候事、御返書御座候事
         |                               〃
         | (長兵衛)(勘三郎)
早舟ノねうし接ガ |一、元田・入江登城、今度被仰付候御早舟ノねうし取置候処ニ、はき候ハてハ不成候、御念入候御舟
デハ成ラズ    |                                    (忠有)
         |  ニて御座候ニ、はき候てハいかゝニ御座候間、取なをし申度候、左候ハヽ、彦山座主御知行山ニ
         |  有之儀ニ候間、座主へ御状被遣候へと申候、則状被渡候事
波奈之丸仕直シ  |一、右両人、なミなし丸ノ御舟、今度御船頭甚右衛門ニ御この三被 仰付候而、仕なおし御座候故、
         |                                    (樋口)
         |  御奉行之ニ付候衆、御さしかミ不で候、然ハ、かゝみ善右衛門不承儀申候間、淡路罷下候而可否
         |     〃
         |  申付之由申候而、さしかミ不出候、おかゝ可仕哉と申候、善右衛門さ様候とても、御直ニ御こ
         |  のミ被成候と申、大分之儀ニ候間、急出来不申候ヘハ、いかゝニ候間、急被申付候へと、被申渡
         |  候事
         |一、冨田十太夫与小頭四左衛門、十太夫理被申候ニ付、被召上、似相之御用等可申付之由候、小頭
         |  余人ニ申付由、十太夫申候ニ付、右之通、昨夕四左衛門ニ被申渡候事
         |(一脱)                                                      (野中)
狼ノ頭黒焼    |  大かめノ頭ヲ、国東郡之御惣庄屋二子久左衛門進上仕候而、塩木又兵衛持参被申候事、則作庵ニ
         |  申付、黒やきニ仕候へと被申渡候事                     〃
末次宗也ヨリ借銀 |一、長崎之銀子上方ゟ被下候故、長崎ニ而かり候へと借状調、明日御舟可下之由ニ候、末次宗也銀
         |  子之由、先日申越候故、彼仁へ借状当、式ア殿・御奉行衆加判之事
         |  (田川郡)
香春ノ籠修理   |一、香春籠そこめ申候通、林與兵衛申候、則河田八右衛門ニ與兵衛を被引付候て、繕之儀、被申渡候
         |  事
         |  (河喜多正直)(仁保慰英)
奉行等談合    |一、五郎右衛門・太兵衛所へ、御奉行衆被集ス籠而談合之事
新規召抱ノ禁   |一、同所ニ而御物書、其外新之者召抱間敷之由候
船作事定手伝   |一、同所ニ入江・元田手前定手伝ニ成候者見立申候間、御抱可被成之由候、是又今まてノ分ニ出人
         |  にて可仕候、新参ニ抱申間敷由之事
         |            (松本)(栗野伝介)
         |一、藤崎言斎内十兵衛を抱、彦市・伝ニ可渡由之事
         |

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■用人という仕事

2019-11-24 07:07:29 | 歴史

 「肥後讀史総覧」をみると、肥後藩主要役職員という項があり、ここに代々の役職を勤めた人々のリストがある。
「用人」については、都合182名の名前が連なっている。
「用人」は常に約7~8人が勤めているが、その仕事は広範にわたって居り、それぞれが幾つかの役職を分職兼帯していることが判る。
宝暦の改革以前は用人の職務の内容は、大御目付や知行にまで及んでおり、藩主の意向を代弁するなど家老に比肩すべき力を持っていた。
光尚公時代の林外記や、宜紀公時代の神谷矢柄などは、今もって宜しからざる人物として語られるほどである。

一方では、その職務を忠実に勤め、堀平太左衛門の力量を見抜いて重賢に推挙した竹原玄十郎などは、宝暦の改革の影の功労者ともいえる優れた用人だといえる。
その堀による機構改革を経て大御目付職の独立や、一部の職務が奉行所へ移管されると、用人の職務は藩主の家政的な業務のみに限定された。
そのことはそれまでは1,000石以上の出頭家臣や有力家臣にゆだねられていたが、改革を機に400石以上となし、席次も奉行職より下座となされた。
権限は制限されたものの、いつも君側にあることから、それなりに影響力を持っていたものと思われる。
寛文以降の「用人」の職務は以下のようなものである。

    ・御近習御次支配頭
    ・御宝蔵預
    ・御青印奉行
    ・御台所受込
    ・御書方
    ・御裏方支配頭
    ・御鷹方支配頭
    ・御馬方支配頭
    ・御納戸上聞
    ・御側御銀方上聞
    ・御腰物方上聞
    ・御作事方
    ・御倹約方上聞
    ・御能方
    ・御代筆
    ・御密書懸

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■その後の「西南の役‐熊本隊出陣の場所」

2019-11-23 18:17:21 | 熊本
 
■街角の風景・「西南の役‐熊本隊出陣の場所」 
 通称八丁馬場と呼ばれるのは、健軍神社の参道、その脇の側道(写真の背面)添い、神社のすぐ目の前の右手にこの「西南の役‐熊本隊出陣之所」という碑が建てられている。明治十年二月十九......
 

 ちょうど一年前の記事である。西南の役‐熊本隊出陣の場所をご紹介した。
存知よりの方のご先祖さまや、また遠い縁戚の者が志を一つにして出陣した、戦陣に倒れたり罪を得て服役したりしている。
当時この場所は熱気に満ちた熊本士族の魂が沸騰していた地である。
その後これ等の貴重な跡が取り壊されたと聞いて現場を確認に行ったことが有る。
記念の石碑や、岩下雄二氏の句碑などが全く姿を消していた。

         熊本隊出陣之所  「熊本隊出陣」の画像検索結果                      以前の姿                  句碑 早春の雲は流るゝ形せり 

その後また、元の位置に復元されたという情報を聞き先達て図書館に出かけた帰りに確認に立ち寄った。
以前とは全く異なる形に変わり果てていた。この場所を取り囲む一画は、現在マンションでも立つのか工事が行われている。
どうやらそれに関連してこの場所も整備されたのではなかろうか。植栽もなく無味乾燥の体裁で大いなる違和感を感じている。

明日は雨模様らしい。天気が良くなってから写真を撮影し御披露しようと思っている。

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■細川小倉藩(83)寛永元年・日帳

2019-11-23 08:16:12 | 細川小倉藩

          (寛永元年八月)廿六日

         |                          
         |     廿六日 両人詰 細雨 
         |
大阪へ米売    |一、牧長三郎ニ、大坂へ御米売ニ被上候儀、被申渡候事
大橋普請用加賀苧   |一、弥五右衛門登城候て、大橋御普請ニ入申候間、御舟手へ被仰候て、かがすヲ五本御かし被成候へ
綱        |                  (横山重嘉)
         |  と申候、則鏡善右衛門ニ可申渡之由、助進被申候事
         |(一脱)
入牢       |  伊谷莵右衛門内寺内八兵衛、昨夕籠者被申付候事
         |  (井) 
         |
         |一、友田二郎兵衛与御鉄炮ノ渡辺清兵衛被召上候間、替之人入候へと、被申渡候事
鉄砲足軽切米加増 |一、御鉄炮衆、御切米壱石つゝ被召上候を、今度江戸ゟ数年ノことく十石つゝ被遣候由、被成 御諚
         |  候、則御鉄炮頭衆ニ被申渡候ヘハ、忝儀ニ手御座候由、被申上候て可被下由、御礼ニ御奉行所ま
鉄砲頭御礼登城  |  て登城候衆、井門亀右衛門・国友半右衛門・金守将監・西川與介・谷忠兵衛・同助太夫・竹内吉
         |                  (勝永)                        (直正)
         |  兵衛・田辺平介・西沢文右衛門・寺尾左介・荒木助左衛門・高田角左衛門・寺本八左衛門、此等
         |  之衆也
         | (規矩郡)                              (田中氏久)(加藤)          (正直)
代官出入ノ書物  |一、当郡御代官手嶋小右衛門・前田與三右衛門出入之書物、猪兵衛・新兵衛、御奉行衆三人、河喜多・
         | (慰英)
         |  仁保所ニ而、御郡代上田忠左衛門、此衆見被届候事
         |  (莵)
入牢       |一、と右衛門内者八兵衛・同女はう籠へ入申候事
         |

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■推薦、渡辺京二著「熊本県人」

2019-11-23 06:38:14 | 書籍・読書

                     978-4-905369-23-3.jpg 言視舎サイトから

 この本は2012年2月18日第一刷のものであるが再販本である。
初版は1972年とあるから、渡辺京二氏、御年32歳の頃の作品であり、今年で47年を経過しようとする作品である。
しかしながら、この再販本は全く手が加えられていないという。出版社が変わったので別途「あとがき」が加えられただけだそうな。

今では高名な著作家であり評論家である渡辺氏だが、1972年当時は全く無名で仕事がなく、谷川健一氏にすがって発刊にこぎつけたものだそうだ。
つまり渡辺氏の処女作という事になる。再販本に加筆されていないという事は、32歳の当時からかわらぬ氏のゆるぎない確信が見て取れる。
いわゆる下世話とも思える話などが面白く紹介されているが、その博識には恐れ入るばかりである。熊本人必読の書だと考える。

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■肝に銘じなければならない事

2019-11-22 08:29:32 | 古写真

                                                       
                                  写真・図版

  明日来日される フランシスコ・ローマ教皇が、この写真の存在を世界に発信されたのは、昨年のお正月の事だとされる。
なんとも胸につまされる写真である。
昭和17年生まれの私からすると、少しだけ歳がはなれたお兄ちゃんと、年下の弟という感じであるから、他人ごとには思えない。
亡くなった子は、生きていれば74歳くらいか? お兄ちゃんの行方は知れないとされるが、ご存命であれば80代半ばか?
お兄ちゃんの唇をかみしめた無念の表情と、すっくと延ばされた手の指に何かしらの決意を感じる。裸足の姿がなんとも痛々しい。

この写真が語り掛ける痛烈なメッセージを肝に銘じなければならない。

 

 

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■細川小倉藩(82)寛永元年・日帳

2019-11-22 07:01:17 | 細川小倉藩

          (寛永元年八月)廿五日

         |                          
         |     廿五日 
         |   

大阪ヨリ下着ノ品 |一、大坂ゟ中津海三右衛門罷下候、一、むらさきかわ四枚、一、御鉄炮弐十五丁・金はく千枚・ミノ
紫革 鉄炮 金箔 |  (紙)                          (短  息)
美濃紙 緞子ハナ |  氏壱束、緞子色々たんそく仕候へ共、一ゑん無御座候事
シ        |          四日ニ立、                                 (忠興妾、清田氏カ)
忠興妾ヨリ重陽ノ |一、江戸ゟ村田忠右衛門下候、 三斎様へ 殿様ゟ続少介へ当、 御書箱壱つ参候、御はら殿ゟ 三
祝儀       |       
         |  斎殿へ御〇袖箱ニ入参候、数ハしれ不申候事
         |一、御奉行衆 御書箱三つ、内二つハ跡ゟ御長ゑ衆上候ニ、参候事
江戸ヨリ来状   |一、式ア殿へ 御書箱壱つ、ふん後御横目衆へ 御書参候を田辺平介へ被渡候、河喜多・仁保へ 御書
         |             〃〃〃〃〃〃〃〃 〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
         |         (へ脱カ)
         |  壱つ、田中猪兵衛 御書壱つ、ふん後御横目衆ニ付被居候衆へ御書壱つ、米田與右衛門・少右衛
         |              御小袖
         |  門へ御書壱つ、一、九月之 三斎様へ御上ケ被成候、御書は御奉行衆ヘノはこニ入参候事
         |    (烏丸光賢室、三斎女)
烏丸万書状    |一、京ゟ 御万様 三斎様ヘノ御書箱参候事
         |一、今日下着候 御書之御用共、それ/\へ被申渡候事
菊野長十郎二百石 |一、菊野長十郎ニ為御加増、大塚村ニ而弐珀国被遣候由、被仰下候へ共、彼地ニハ御蔵納少も無御座
加増サル     |  候故、田猪兵衛申候ニ付、大塚方角之御蔵納之書立仕候へ、便次第可得 御諚之由候事
         |             (ママ)
         |一、佐藤安右衛門登城候、書物之候ニ而用之儀共被尋候、御奉行衆肩書被仕候事
         |                        はたと
         |一、冨田十太夫登城、主跡ノ小頭四左衛門事、手前不罷成候間、爰元ニ而似相之御用をも被仰付被
         |          (浅山清右衛門)
         |  下候へかしとの儀、浅清右へ被申候、各と談合可仕之由、被申候事
金山奉行春木與吉 |一、春木與吉手前七年ゟ江戸へ参候とて、造作料請取候ニ付、当年之知行ノ口明なしニ、左候ハヽ、
造作料      |  與吉ニハ月/\ニ扶持方かしニ可被申付ノ由候ニ、左候ハヽ、月/\ニ宇佐郡ニて被下候ヘハ、
         |  舟路と申、遠路之儀ニ候間、田川方角之御米被渡下候様ニと申候、安右衛門申候ハ、與吉は御金
         |  山にて無紛者ニ御座候、知行をも御加江候へ、御扶持方を被下候なとゝ候ヘハ、外聞もいかゝニ
         |      
         |  御座候被申候、刑ア被申候ハ、左候ハヽ、今一度談合可被仕ニ候、然ハ、河喜多被申候ハ、先御
         |               (幸長)
         |  時分へ諸運上候ヲ、豊岡・野田へ算用究させ、知行之余米も有無シを御尋候而、其上を以、御扶
         |  持方之所造作銀之事を可有惣談之由候事
         |                           (へ脱)
幟ノ者召抱    |一、新参ニ御のほりノ者大谷與左衛門・山本助左衛門両人かゝ置申候、則御らん候へと、高野徳右衛
         |  門召連、登城仕候事
         |一、春木與吉手前之儀、来年之御貸米之内を、月/\ニ賄入目ほと可被渡談合究、左候て呼野御蔵ニ
         |  て被渡候ニ相済候事
         |

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■万五郎→太郎左衛門の事か?

2019-11-21 13:38:28 | オークション

 昨日までは見受けられなかったように思うが、今日はもう締め切りだとする平野万五郎宛の御書き出し(知行宛行状)である。
特段珍しいものではないが、随分高い。需用と供給の問題だから、脇からちゃちゃを入れるのも如何とは思うが、最近この手の物が随分高値で設定されているのが気にかかる。

           

 平野万五郎にあてたものであるが、「細川藩家臣略系譜」にその名は見えない。
但し「満五郎」という名が見え、これは平野太郎左衛門だと比定されている。この人物を祖とする家が6家あり、明治に至っている。
この御書き出しの人物は平野太郎左衛門の事であろう。嫡流が代々二百石拝領している。
残念ながら私はこの一族に関しての先祖附を所有していないので、何故この家が6家に使用を広げたのかを知る由もない。

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■捨て子の運命

2019-11-21 10:51:01 | 歴史

 明治元年川尻に於ける「捨て子」についての記録が残る。川尻下町の今村徳次郎なる者が届け出た。
丁頭・横目から七人の町別当の押印を経て奉行所に提出された「口上之覚」に詳しい。

          「口上之覚」
      当月廿ニ日暮六半頃、私方戸口先ニ小児之泣声仕申候間、
      早速罷出見繕申候処、六月過位之男子ニ而全捨子ニ相違
      無御座、其節之衣類者縞絣はき之袷、古肌着壱ツ、同袖 
      なし羽織壱ツ都合三枚、外ニ古手拭、同まいたり、是者
      しきものにして有之候、右之通拾ひ揚ケ申候、然処私方
      ニ乳持之者無御座候ニ付、近隣之乳持を相頼ミ養育仕居
      申候、此段口上之覚を以御達申上候、以上
                     川尻下町
        明治元年十一月         今村徳次郎

 悪名高い徳川綱吉の生類憐みの令があるが、一方では「赤ん坊は授かりもの」として、捨て子等はその地域で養育させることが義務付けられている。
10歳になるまではその町や村で養育しその間里親を希望するものがあれば、これに託されたという。
さて上記の件に於いては、幸いなことにすぐさま赤子を育てたいという人物が現れている。
これも丁頭・横目四人から七人の町別当の押印を経て郡役所に提出された。

          「奉願覚」
                        捨子
                         壱人
      右者私儀五ヶ年以前妻帯仕候処、今ニ代継茂無御座候ニ
      付、案労仕居申候処、男子壱人有捨候由承申候ニ付、何
      卒私江被為拝領被下候様奉願候、如願被 仰付被下候ハヽ
      相育代継ニ仕可申段難有奉存候、此段宜敷被 仰付可被
      下候、為其覚書を以奉願上候、以上
                        川尻岡町
         明治二年三月            千太郎

 申出を受け役所ではこの千太郎という人物の身元を調べている。
「千太郎儀勝手向も兎哉角押居候、夫婦共ニ慈愛厚、兼而心得方宜由」故に願いの通りにして良いのではないかと申し達ししている。
これをうけ、飽田郡代二名が連名にて、その月のうちに町方参政宛に上申、四月初旬には許可がなされた。

      去十一月廿ニ日夜、川尻下町今村徳次郎戸口際ニ捨子有
      之候処、同町千太郎と申者養育いたし度段書付被御達置
      候、依之金子三両三歩被添下候条、往々心を付養育いた
      し候様可有御達候、以上
         明治二年巳也          町方
           四月五日           参政中
         飽田
          御郡代衆中

 千太郎なる人物が養育を申し出てから、ほぼひと月で許可がなされている。
赤子を預かっていた人々にとっても、喜ぶべき結果がもたらされた。
幸いがもたらされたこの子は、生命力がなかったのか二月ほどして残念ながら死去している。

     「本文捨子、当月十八日病死いたし候段、川尻入江次
      郎太郎へ達之書付、六月廿九日差廻来候事、此先ニ
      記録アリ」

 以下届け出の覚である。

           申上覚
                       岡町
      一男子壱人             千太郎
                          養子
      右者捨子同人江被為拝領難有相育居候処、病気差起り療
      用相叶不申病死仕候、此段覚書を以御達申上候、以上
                       丁頭
        明治二年六月          米村金八(以下二名略)
                    別当七名宛
                  石原陽太郎殿
                入江次郎太郎殿
     「付札」
     「本紙之趣ニ付、承繕申候処、千太郎相育候捨児、元
      来乳養之生育無之処より病気差起、下痢相添候由ニ
      付、千太郎夫婦共々昼夜差添看病手厚いたし、懸医
      道家大春方、且松岡俊五方江療治相頼療用いたし居
      候内、当月十八日暮過頃病死いたし候由ニ而、於所
      柄茂何そ煩敷唱茂無之由ニ相聞申候、以上
        六月             森又三郎  」

 昨今、自らの子を虐待の上殺すという無慈悲な事件が頻繁に報道され眉をひそめさせている。
そんな中、江戸時代にこのような「捨て子」をコミュニティーに責任を以て養育させるという救済策が存在していたことを、詳しい事例を以て知りえて感動を覚える。
短い間ながら、精いっぱいの愛情の中で育てられたことが、せめての救いである。
「授かりもの」である将来ある子らの行く末に輝きあれと祈るばかりである。

      江戸の捨て子たち―その肖像 (歴史文化ライブラリー) 江戸の捨て子たち―その肖像 (歴史文化ライブラリー)


 

 

 
        

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■細川小倉藩(81)寛永元年・日帳

2019-11-21 06:58:48 | 細川小倉藩

         |                          
         |     廿四日   両人詰 晴天 
         |
百姓次郎介損ノ代 |一、林與兵衛、昨日も今日も登城にて、 そんノ代米、赤村之二郎介借用し候へ共、一切上納不罷成
米        |  候、就夫、去年分之御算用不罷成候間、御吟味被成、御算用通候様ニ、被仰付可被下之由候事、
牢死人ノ処置   |一、不破忠左衛門内與七事、昨夕六つ時分ニ籠にて病死仕候由、御籠之御番五郎左衛門申来候、則式
         |  ア殿・民ア殿へも申候へと被申渡候ヘハ、御両人、御奉行衆ゟ切手ヲ御調候而給候へ、左候て、
         |  籠ゟ取出、すて候へと、可被仰付之由御申候事
         |
         | 羅漢寺、下毛郡羅漢村)
羅漢修繕奉行   |一、らかん御つくろい普請之御奉行ニ、堀江勘兵衛被申付候ヘハ、半兵衛老母火急ニ相煩之由候て、
         |  知行所へ参候ヘハ、呼ニ参、昨夕罷帰候事、半兵衛も大坂ニ罷有儀ニ候間、御指替候て被下候へ
         |                    〃
         |                       (林)      (河田)
         |  との儀ニ付、山路太兵衛ニ被差替候事、煩之儀、弥五左衛門・八右衛門慥ニ被聞届候事
         |                  〃
         |   津           式ア殿                            同状
借銀帳借米帳中津 |一、中御奉行衆ゟ、民ア殿へ御借銀之帳二さつ、御借米帳壱さつ、合三さつ〇参候ヲ、持せ御上候、
ヨリ来ル     |    届       (元高)                                         (豊岡)
         |  被見候ヘハ、志水次兵衛斗ノ判ニ而、中津御奉行衆判形無之候ニ付、返シ被申付候、則、豊甚丞
         |  へも見せ被申候ヘハ、其分被申付候
         |一、国友半右衛門与之御鉄炮ノ者渡辺久兵衛、昨日病死候事
         |
         | 河喜多・仁保座敷へ御奉行衆も被集候て、惣談之分
惣奉行知行方奉行 |一、御城廻り売買地之儀、河五郎右一存之通書付、被出候、御奉行所・猪兵衛・新兵衛惣談にて、御
等惣談      |           (河喜多正直)
         |                   (篠カ)
小倉城廻リ貸田年 |  貸田毛上売之分ハ被指帋、 春売ノ分ヲ葭埼上り畠御免同前ニ御年貢米取立可申由ニ而、右ノ書
貢米       |  物、御奉行衆・猪兵衛・新兵衛印判有之
         | 同所にて、
貸銀米ニテ運上ノ |一、御貸銀ヲ米ニ而運上之双場、銀百めニ付五石六斗宛相究候事、
相場       |
         |同)
         | □所にて
留守居ヘノ貸米  |一、御留守居衆御貸米、廿五石宛ニ相究候事
         | 同所                                                     (松本)(栗野)
塩代官任命ニ吟味 |一、千葉伝右衛門儀、今之分ニ塩代官被仰付可然哉、不入儀ニ候か、様子具ニ吟味候へと、彦市・伝
         |  介ニ被申渡候事
         | 同所
運上銀滞納    |一、真下助右衛門運上銀三十め余滞り候而、去年御算用つかへ申候由、林與兵衛申ニ付、各御吟味、
         |  惣銀之事候間、御家老衆へ宇野理兵衛を以可申由、せかれ手前ゟ可出儀と談合候事
         |(同)
         | □所にて
百姓二郎介損ノ代 |一、帆柱儀左衛門借付之そんノ代米、田川あかノ二郎助借用候て、未上納不仕候、御郡奉行衆去年之
米        |         (用脱) 
         |  請ニ入候故、御算不罷成候、当年之請ニ入候て、去年分之御算用を可被通之由、御算用聞衆へ差
         |  帋被付候事
         | 同所
三淵好重借米取立 |一、伊か殿米滞分、死人・うせ人も御座候、是も御算用ニつかへ申候、是又年々ニ被取立候へと様ニ
         | (三淵好重)長岡伊賀守・好重は元和三年に没している。伊賀ではなく右馬介重政のまちがいではないのか?
         |  と、御算用衆へ差帋被付候事
鷹山       |一、河合権丞御鷹山へ参候、毎歳御山こしらへ候儀ハ、御百性ニ被仰付候条、御郡奉行衆へ御差帋可
         |  被下之よし申候、御郡夫遣申間敷旨、御諚ニ候へ共、是ハ別ニ可申付様無之候条、 御百性ニ申
         |  付、日用賃可被遣之由ニ相究、指かミ被で候事
         |一、大村久兵衛ニ人足壱人相添候而、御郡へ被出候事
         |  

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■細川小倉藩(80)寛永元年・日帳

2019-11-20 18:53:12 | 細川小倉藩

   (寛永元年八月)廿一・廿二・廿三日

         |                          
         |     廿一日   両詰 晴天 
         |
         |一、国友半右衛門与之御鉄炮衆末信又右衛門、昨日病死之由、申上候事
中津ヨリ人戻シ  |一、中津御奉行衆ゟ書状参候、規矩郡石原町甚兵衛と御百性之娘人戻ニ、中津御領ニ参候へ共、理立
         |  候て、又甚兵衛所へ御返候間、請人取人被指越候へとの儀ニ候、則上田忠左衛門ニ可申渡之由候
         |  て、呼ニ被遣候事
         |一、御奉行衆も今日ハ江戸へ状共被認候ニ付、万かまひ不被申候事
         |

         |                          
         |     廿二日   両人詰 天気曇 
         |  (沼田延元)                                            (鏡)
         |一、勘解由殿・志加左衛門ゟ、大坂迄御舟ニ人を壱人御のせ候て可被下之由申来、則善右衛門ニ被申
         |  渡候事
         |一、御船頭重田吉左衛門・宮毛清介大坂ゟ罷下候、樋口淡路所ゟ、御奉行衆やかて可罷下候へ共、女
         |  房相果候■故、延引仕候由申越候事、
船拵奉行之算用  |一、入江勘三郎・元田長兵衛登城、主手前ニ居申候手伝、今度江戸へ被遣候へ共、名代を立遣申、其
         |  身ハ御さん用可仕由申ニ付、其分ニ申渡候事
         |                   (寒田、築城郡)
寒田牧山ノ馬   |一、沢村大学殿ゟ江戸ヘノ言上御上ケ候、又沢田山ノ御馬無事ニ御座候由、百性参申候、今月十七日
山犬打      |  夜、山犬出申を、百性てつほううちかけ申候へ共、藪深御座候て、見うしなひ申候、玉くすり被
         |               (由脱)
         |  遣候て、うち候やうニ被仰付候御申候
         |一、鏡善右衛門登城、樋口あわち女はう大坂ニ而相果申候由、被申候事
大阪詰鉄炮足軽帰 |一、大坂ニ残御鉄炮衆住江武右衛門与・井門亀介与四十八人、御あら仕子四人罷下申候事
着ス       |
         |一、熊谷平左衛門替ニ、杉山藤兵衛明日参候由候て、登城被申候、田川知行へ参候て、それゟ直ニ中
         |  津へ可参之由之事
速見郡奉行豊後府 |一、符内之様子書付候て、宇野七右衛門被上候を、江戸は進上申之由、御奉行衆被申候事
内ノ様子ヲ報ズ  |
         | (松平忠直)                                  (丸カ)
松平忠直家臣人数 |一、宰相様衆跡ニ被残衆花井藤兵衛父子・垣野間父子・遠藤勘介・九岡源五・大宮左門・近松理右衛
         |  門以上八人、男女ニかけて弐十人ほと無之由申候、宇野七右衛門被申候事
         |一、御供替衆京吉田ニ逗留候日数出入、五日ニ究候事
出家帰洛船中賄ノ |一、御出家衆御上候時、船中奉行ニ被遣候津田左兵衛・内藤喜兵衛罷下候、兵左衛門・七郎左衛門ハ
奉行       |  京ゟ直ニ御茶つほヲ持せ、江戸へ参候由候事
唐人       |一、市尾作内・間太郎助、今夕出船候事、其外ニ御鉄炮衆二人、唐人弐人相添、参候
女出判      |一、宰川忠介女他国へ出候、御印取ニ江戸被上候事
         |

         |                          
         |     廿三日   両人詰 晴天也 
         |
         |一、市尾作内・間太郎助江戸へ今朝出舟、言上を調、昨日七つ時ニ相渡シ申候事
         |                    (仁)
         |一、出川惣左衛門二三日以前に相果被申候、吉保・川喜多物語也、但、太郎左衛門□□□□□□
         |  〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
         |  (松井興長)
松井興長風呂ノ振 |一、式ア殿へ、九つ過ゟ御振舞ニ参候、松之丸ニ毎日相詰候衆之分不残御よひ、風呂へ御入候て、晩
舞        |  ニ御振舞之事、
                          |  
 
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■細川小倉藩(79)寛永元年・日帳

2019-11-20 06:45:44 | 細川小倉藩

                         (寛永元年八月)廿日

         |                          
         |     廿日   両人詰 晴天 
         | (寒田、築城郡)(苅田、京都郡)                        (坂井)
寒田山苅田山ノ牧 |一、沢田山・かん田山牧ノ御馬、子うみ申候間、見せニ遣候へと、忠三郎被申付候事
ノ駒見分     |                               (沼田延元)細川藤孝室・麝香の兄・清延の嫡子
沼田延元没    |一、京之長老衆送上候岡田茂兵衛登城、御出家衆無事御上着之由候、長岡勘解由殿去十三日二遠行之
         |  由候事 
茶壷江戸へ運送  |一、右ノ御奉行ニ参候小林兵右衛門・沢田七郎左衛門儀が御茶つほ参せ、京ゟ江戸へ参たる由候事
         |一、式ア殿御登城、住江武右衛門跡ノ人数書立えを御持参にて、御奉行衆いかゝと御談合、其内御用御
         |       (米田是友)(矢野)
         |  座候とて、甚左衛門・助二郎を御のけ候間、■意之儀ハ不存候事        ■=己の下に十
         |        (佐藤)  (春木)    
         |    御金山ゟ安右衛門・與吉被罷出、談合之事
山頭下山出国ヲ求 |一、山頭味方茂左衛門・岩見少助両人共ニ、おいニ堀子とも付ケ、御金山ニ残置、其身ハ妻子を召
ム        |  連、何方へも参度と申候、惣別右両人はよき事ハすくなく候て、悪敷事多候事間、安右衛門・
他国銀山好況ノ風 |  與吉も被申候ニ付而、切手を遣、被■出候へと談合究候、他国銀山能由、此節風聞御座候、左
聞        |  候ハヽ、ぬけて可参候、左様之者ハ重而御国へ参候哉との儀ニ候、是又何と留候而も、他国山
帰国ノ容易ナルヲ |                                      
慮リ出国ヲ許ス  |  他国之山悪時ハ、何時も御国へ為可参候間、出したるか可然之由談合究候、其少介おい・茂左
         |           おい
         |  衛門〇も同前ニ召連参度候ハヽ、両人次第と可申渡由ニ候事
         |
呼野採銅所ノ米価 |一、呼野・採銅所御米直段三升五合宛ニ而、此節ハ小倉も六升も其上も仕候間、御金山ノ米之直も
ヲ下グ      |  少さけ候て可然之由にて、四升宛ニ成候
         |
         |  先日
         |一、山頭清右衛門・五郎右衛門被参候時、山頭共ニ何そ申上度儀とも候ハヽ、書付上ケ候へと被申
         |  〃〃
山師借米願    |  渡ニ付而、書物共符を付ケ、安右衛門持参候、一ノ坂ノ助右衛門・本山ノ喜右衛門両人連判ニ
借米ニテ間歩開鑿 |  而、御米三十石一度ニ御かし被成候ハヽ、間歩を仕度之由申候、両人ノ外ニも右同前ノ由候、
ヲ願ウ      |  左候て、右ノ御米を利なしニ、来年八月ニ被召上候様にと申上候へとも、先安右衛門・與吉被
         |  罷帰候て、間ふ所をも被尋、様子をも具ニ被聞届候て、重而ノ談合ニ可仕候て、不相済候事、
         |      宗兵衛
山頭人妻ト走ル  |一、採銅山頭忠左衛門と申者、人ノ女房召連、走り申之由候事
         |      〃〃〃〃
         |     以上
         |        (野田) (渡辺)
新銭鋳造奉行出立 |一、新銭鋳申奉行喜兵衛・清兵衛両人共ニ今日参候て、登城仕候ニ付、本銭、又銭屋書物共被渡、
本銭ヲ渡ス    |  口上之儀とも具ニ被申渡候事
         |      元わ
金山奉行春木與吉 |一、春木與吉〇先年江戸御供ニ可被召連と候て、惣並ニ造作料請候処ニ、銀山を仕立候へと 御諚に
ノ出府供造作料ノ |          (沢村吉重)
始末       |  て不召連候、其後沢大学殿を以申上候ハ、造作をうけ取候へ共、容易旁仕候、其上時分ニもまふ
         |  を一つ仕度と申上候ヘハ、其分ニ可仕ノ由被 仰出候、それニ付、與吉江戸へ参候時も、そうさ
         |                                  (甚丞)
         |  れう少もうけ取不申候、番方ゟノ算用ニ、右ノ銀子書出候間、いかゝと豊岡申候ニ付、右ノ様子
         |  與吉御奉行衆へ申候、冣前之儀大学殿存之儀ニ候間、彼方ゟ如此之御諚ニ候間、其分ニ被仕候へ
         |  と、差帋を取候而可然之由ニ候、與吉ゟ大学ニ申かね候間、 御奉行衆ゟ可申之由ニ談合相究候
         |  事
         |一、野田作庵大坂ゟ罷下候事
大橋板ハ番方ニテ |一、大橋之板、弥御番方斗ゟ可仕と、式ア殿・民ア殿泰勝院殿ニ而被仰候事
出ス       |
         |  (破)
明寰調薬拒否   |一、不波忠左衛門内與七薬之儀、ミんくハん所へ取被遣候ヘハ、ミんくわん申候ハ、我等手柄にハ成
         |  間敷之由申候ニ付、余之薬師ニ可被申付之由候事
         |           細川幽齋娘伊也女           
         |一、岡田茂左衛門舟ニ、田中又介殿御袋同道候て御下候事         参考 又介室は忠興・伊也の妹・千
入米法度之触廻達 |一、他国ゟ入米御法度之ふれ状持廻り候御小人罷帰候事
         |
 
 
 
細川家・田中(長束氏)家相関図
         
+---- 細川忠興
|    吉田兼治
|        ‖ -----+---兼英 兼治家督
+---- 細川伊也  |
|           +---萩原右衛門督兼従
|           | 
|           +---愛宕山福壽院住持幸賢法印
|         |
|           |  長束大蔵正家
|           +---●・田中半左衛門室----又助・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川家臣田中氏  
|           |                                    ‖ 
+ ----------------------------------------------- 
          |
          | 阿野中納言実顕 キントミ   キンナリ
          |    ‖----------公福==公業---実藤(生母・木下勝俊女)
          +---●・ ミツ       (公業は公福弟)
          |
          +---●・船橋従二位秀相室---相賢==経賢
          |
          +---●・たま 小笠原備前長元室・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川家臣小笠原氏
          |         ガラシャ夫人殉死小笠原少斎嫡子
          |
          +---●・清田石見室・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川家臣清田氏 
      
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■細川小倉藩(78)寛永元年・日帳

2019-11-19 16:45:52 | 細川小倉藩

                         (寛永元年八月)十九日

         |                          
         |     十九日   両人詰 晴天 
         | (小笠原長元)
         |一、民ア殿へ 御書参候を、御奉行衆へ被持越候、頂戴被仕候、様子ハ何とも不存候事、
         |                          (正直)(慰英)(田中氏久)(全右衛門)(伝右衛門)
小倉城廻貸売田  |一、御城廻り作貸田毛上売・春売田ノ儀、御奉行衆三人、河喜多・仁保・猪兵衛・福田・河崎惣談ニ
         |  而相済候、子細ハ書物御奉行衆ニ有、写此方ニも御座候事 
         |一、泰勝院殿ヘノ御茶、河喜多被出候事
物書召出     |一、御物書伊藤権右衛門と申者、山田次右衛門申候而被 召出候、明日より相詰候へと被申渡候事
         |      
大橋板出     |一、御家老衆〇両使、大橋板出シ之儀、御出船之節ハ役人大坂ニ有之故、御留守居衆・町人として香春
         |  ゟ出可申旨、 御諚ニ而可有之候、只今御普請衆大坂ゟ罷下候条、御留守居衆・町人共出候儀い
国役銀      |  かゝニ候、御留守居衆之内ニ而も御国役被仕候衆少々御座候、其外ハ御国役之銀子ハ出之、役人ハ
         |  出間敷と御座候条、書分可給之由候、則書立ニてんをかけ候て、右之使弥次右衛門・助右衛門ニ
         |  被渡候ヘハ、重而之使、弥右之通ニ候へハ、役人も大坂ゟ罷下、今七百人はかり大坂ニ罷居候、
         |  町人・御留守居衆ゟ被出候事ハ御無用ニ候、番方ゟ迄出可申候間、左様被心得候へとの儀ニ候、
         |  御奉行衆ともかくも御意次第ニ候、今度指上せ申候御飛脚ニ、右之通言上可仕之由被申候事
         |一、同御郡奉行衆も役不被仕衆前々てんかゝり候、何々との御夫、是ハ正月ニ十日、二月卅日、六月・
国役年ニ百日   |  七月、合百日、御国役被仕候へと 御諚ニ候、其後又御借米取立之儀を御郡奉行衆ニ被 仰付候、
         |  ハや御取立之時分ニ候間、御役被仕候儀ハ罷成間敷之由、返事被申候ヘハ、又夫 御諚之通ニ候
         |  間、御尤ニ候、乍去、一年ニ百日被仕候分ハ、いつニ而も役を御取候て可然之由、御申候事
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■好奇心をくすぐる本

2019-11-19 08:31:23 | 書籍・読書

                                                        秋に夜長の読書には、こんな「好奇心をくすぐる本」がいいですね。

                            

                     信長と弥助 - 本能寺を生き延びた黒人侍 ロックリー,トーマス【著】/不二 淑子【訳】

内容(「BOOK」データベースより)

一五八二年、本能寺。織田信長の側近のなかに、特異な容貌でひときわ眼を惹く男がいた。その男こそ、日本史上初とされる黒人侍、弥助だった。信長の切腹後、弥助は危険をかえりみず、嫡男の信忠のもとへと走る。彼を駆り立てたのは、自分を信頼し、侍へと取り立てた信長への忠義心だった―。国内のみならず海外でも注目を集める異色の黒人侍、弥助。その知られざる生い立ちから来日にいたる経緯、信長との出会いと寵愛、本能寺後の足取りまで、詳細に踏み込んだ歴史ノンフィクション。

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■豊前叢書「鵜の真似」拾い読み(3)

2019-11-19 06:47:53 | 徒然

「鵜の真似」拾い読み(3)

       ・ 田一坪苗一把植る事にて百坪に百把植る是を百目と云ふ 千坪に千把植ゆる是を一貫目と云ふ
     此積りにて大躰十貫は百石 百貫は千石に当る共上中下に依之定めず古法なり

   ・ 肥後の堀平太左衛門は小身より莫大の立身して御家老になり賢人とも云れし人の由 
     肥後侯御借金段々重りて御銀主え御返付も無之由にて 迷惑の余り本願寺より使僧にて 
          右金子は元本願寺の金子にて御返付下さらず候にて迷惑千万に付 何卒御返し下されとの趣なり 
          堀氏返答申けるは 御尤至極左様とは存ぜず 是迄納めず之段本意に背き候間近々返金仕る可き候 
          且越中守領中随分余宗にて相済み 一向宗入用無理に候間 領中の一向宗悉く御本山え御返し申候間 
          是又御請取下べしと相返ければ 本願寺以の外案に相違して平身頭にて右金子の事は鳴入になり 
          結局一両もとれぬ大損に成り候由 思ひ切たる取計と近国にても取沙汰しけるとなり

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