新ゴボウのクリームスープ:新ゴボウを斜めに薄切りして茹でる。白ワイビネガー少々+白ワイン。フードプロセッサーで粉砕。コンソメ+胡椒+生クリーム。ズッキーニの薄切り。
スティックセニョールとズッキーニのバーニャカウダ
牡蠣のオイル煮
ピーター・グロース、2012、『ブラディ・ダーウィン: もうひとつのパール・ハーバー』、大隅書店
オーストラリアのノーザンテリトリーの首都ダーウィンに初めて行ったのは、1984年のことだった(頻繁に出かけたのは、1980ー90年台)。暇な時も、仕事でも街のあちこちをめぐった。すると、街ではAir Raidという文字が建物の名前やメモリーボードやメモリアルとして目につき、イーストポイントの戦争博物館では、本書に記される日本軍によるダーウィン空襲が展示されていた。空港ビル近く(当時は現在の場所とは反対のスチュアート・ハイウェイ沿いにあった)には、航空博物館があって、たしか、ゼロ戦もあった。これは、本書で書かれている空襲の際に撃墜されたゼロ戦のはずだ。ダーウィンの南のアデレード・リバーの戦争記念墓地にも行ったことがあった。墓参者がいてなんとなく、白い目で見られているような気がした。イーストポイントの戦争博物館では、嫌味を言われた記憶がある。今思えば、ダーウィンで初めて泊まった宿はララキア・ロッジという名前だったが、おそらく、空襲の際はダーウィン病院だった建物である。小部屋だったが妙に天井が高かった記憶がある。
日本の機動部隊によるダーウィン空襲は真珠湾の2ヶ月後で、規模においては真珠湾に匹敵するものであったという。そして、その後も、規模はともかく100回近くの空襲が行われた。本書で描かれたのは、アメリカが真珠湾を大々的に国民に知らしめて対日戦への戦意高揚に用いたのに対して、オーストラリアはむしろできるだけ国民に知らせなかった点や、空襲前後の行政府や軍関係の不都合について取り上げている。とはいえ、問題点を告発するというものではなく、むしろ、事実関係を明らかにしたものといえよう。リーダーシップが欠如し、様々な不都合がありながらも、それなりに最善を尽くした人々についても描かれる。
当時は、広いオーストラリア大陸の地勢的な事情で、交通網や連絡網として孤立していたダーウィンでありながらも、インドネシア諸島やニューギニアへの補給地として重要拠点であった。だから、日本軍も空襲をかけたのである。そのことについて、オーストラリアの政治家たちはむしろ手をこまねいていたともいえる。当時は、イギリスの植民地であったから、イギリスの事情で軍をヨーロッパ戦線やアフリカ戦線に送らねばならず、本土防衛は手薄であった上に、思いもかけず日本の南進のスピードは早すぎた。真珠湾と同時にインドシナ進駐やシンガポール攻略、フィリピン上陸が行われて、オーストラリア防衛の拠点が一気に失われていたのである。それにもかかわらず、本国政府の要請により他地域に軍を送り出していたオーストラリア政府は、ダーウィン空襲を可能な限り縮小して伝えて国民の動揺を抑えたかったに違いない。
当時のダーウィンには日本人や中国人、東南アジア人たちが多く住んでいて、また、アボリジニたちもこの空襲に関わったはずではある。しかし、残念ながら、その点余り触れられていないのは、これもまた、オーストラリアの事情ともいえよう。当時の国策は白豪主義であり、事情は様々で実情はダーウィンなどでは違ったにせよ、公式的には白人社会であったので、情報もそれに限られていたに違いない。白人以外の犠牲者がどのようにカウントされたのか、あるいは、カウントされなかったのか。
土地勘があったので、本書で取り上げられる地名が懐かしく思い出された。
2018-03-07 15:44:14 |
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