South Is. Alps
South Is. Alps
Coromandel
Coromandel, NZ
Square Kauri
Square Kauri, NZ
Lake Griffin
Lake Griffin


パスタミートソース、ブロッコリーとグリーンアスパラガスの温製

パスタミートソース:玉ねぎみじん切りを炒め+合挽きミンチを加えて炒め続け+野菜ジュース少々+トマトソース少々。塩コショウ+ナツメグ+チリ―パウダー+粒クミン、アルデンテ一歩手前のリガットーニを湯切りしてパスタソースに加えて、仕上げはフレッシュオリーブオイル
ブロッコリーとグリーンアスパラガスの温製

2020-06-19 22:17:46 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『森の小さな〈ハンター〉たち:狩猟採集民の子どもの民族誌』

亀井 伸孝、2010、『森の小さな〈ハンター〉たち:狩猟採集民の子どもの民族誌』、京都大学学術出版会

どういうわけか下書きのまま(2010-11-27 16:19:25)だったのだけれど、公開しておこうかな。

この書評は、2010年3月2日に書きはじめたのだが、11月27日の中部人類学談話会で、ご本人の話しを聞いたことをふまえた上で、そろそろ書き終えておこうと思う。


本書は、中央アフリカ、カメルーンの森にすむピグミー系の狩猟採集民である「バカ」の人びとのあいだでフィールドワークを行った著者が、とくに彼らの子どもの行動に注目してまとめた博士論文をふまえて出版したものである。著者の前作の単著(『手話の世界を訪ねよう』岩波ジュニア新書)では、西アフリカの手話教育について注目したが、本書でのポイントは、学校のない社会で子供たちの社会化および生業の学習がどのように進むか、彼らの日常の遊びに注目して分析を試みたものである。

「バカ」の人びとは、熱帯のジャングルの中で狩猟採集生活を行っている。しかし、彼らも私たちと同時代にいきる人びとであるから、貨幣経済や学校教育などの現代社会システムの中に一部組み込まれている。彼らの社会は、もともと、子どもに対し何か教えることをしないので、学校システムがこの社会に入り込むのはなかなか困難である。乾季になって比較的移動が容易になると森に入って学校は閑散とし、雨季になると定住する農耕民の村近くに比較的定住的な生活を送る。すると学校に子供たちが戻ってくる。とはいえ、家族の都合や子供たちの都合で、ぷいといなくなってしまうこともある。著者は、学校に居着かない小さなハンターたちにいわば「弟子入り」して彼らと行動を共にしながら行動を観察し、子供の遊びと生業の関係についてまとめあげた。
と書くと、現代教育批判のようにも見えてその点での食いつきがありそうだが、しかし、ちょっと待った方がいいかもしれない。もちろん、そういう立場での読まれ方も著者は十分に想定しているし、本書の主要なマーケットもそれである。でも、もうすこし、本書の視程について、じっくり考えてみたいと思う。

現生人類が出アフリカしたのが10万年前、人類はひたすら歩いて世界に分布を広げたが、その間の大半の時間は狩猟採集をして食いつないでいたことになる。生物進化の時間スケールからすると10万年の時間は短く、おそらく我々の持つ遺伝子の大半は、狩猟採集生活に適応しているはずであるが、さまざまな不適応を起こしつつも、現代社会を築いてきたのもこの遺伝子であることは確かだ。また、現生人類はそれ以前に地球上に生活していた人類の子孫でもあるから、現生人類以前に生存していた人類は現生人類よりもはるか長い数百万年間の生活に適応した遺伝子も引き継いでいることは、確実だろう。
バカの人々は、もちろん同時代に生活している人々であるが、彼らの生活の有様は、人類の元々の生活ぶりを今もなお持続しているということができよう。その意味では、かれらは元々持っている遺伝子を十分に活用して生活しているのではないか。もっとも、人工的な環境の中で暮らし、ネットワークの中でバーチャルな人間関係をも維持しているわれわれもまた、十分に適応しているのかどうかよくわからないが、遺伝子の持つ可塑性の範囲内に含まれているとも言うことができるわけだ。

私たちの持っている遺伝子も「バカ」の子供たちと同じ、もちろん、大人も子供も。バカの子供たちが楽しいことは私たちも楽しい、社会化されていない子供たちの行動はよく似ているはずだ。密林に飛び込んでいくか、それとも、人工的な環境の公園の中に飛び込んでいくのか。そうした行動をする子供たちに対して、「バカ」の大人の社会は干渉せずに自然と子どもたちが学び取っていくのを待っている。私たちの社会は、あれこれと干渉し、早いうちに型にはめ込んでしまおうとする。教育という名の枠組みである。これが、大きな違いだ。

さて、本書を読むうちにマンガ(もちろん、映画でもいいのだが)『二十世紀少年』を思い出していた。ラフなストーリーとしては、1960年代に小学生だった少年たちが、近所の原っぱに秘密基地をつくり、そこで、「予言の書」なるノートを作り、彼らの未来がこの「予言の書」が書くように展開していくというものなのだが、もちろん、現実はそのようにはならない。たとえば、わたし。この少年たちより少々年配だが似たような経験をした。原っぱに秘密基地を造り、暗号を理解できるものだけをその基地にいれた。予言の書は作らなかったが、子供の遊びは似たようなものだ、当時の空想少年は秘密基地の中で、未来の姿を夢想していた。マンガや映画と現実の違いは、子供たちの思い描くようには未来は展開しないということではある。

本書を読んだときの印象は、バカの子供たちの遊びが、なんとシリアスな大人の生活をトレースしているかということであった。私の少年時代は、そして、現代社会にいきる人々は子供は、同じような年齢のときには、おそらく未来のことを夢想するのだろうが、その未来は親たちの生業ばかりではなく、たとえば、サラリーマンの子供がパティシェにあこがれ、なろうとする。たしかに大人のまねをしていた。ただし、じつは、パティシェになるなどというのは、テレビドラマなどからヒントをえたのだろう。言ってみれば、現代の子供は、身の回りの大人からの情報だけではなく、ほかからの多様な情報をえて、未来を増幅していることになるのだろう。
これは、未来になにになるということだけではなく、大人のしている行動をまねる、つまりは、学習するということが子供の精神の発達と平行しているということだろう。言葉の学習もそのひとつで、とにかく身の回りにあることを観察した通りにまねていくわけである。



森の小さな〈ハンター〉たち―狩猟採集民の子どもの民族誌
亀井 伸孝
京都大学学術出版会

このアイテムの詳細を見る

2020-06-19 12:03:51 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『シモネッタのデカメロン イタリア的恋愛のススメ (文春文庫)』(Kindle版)

田丸公美子、2012、『シモネッタのデカメロン イタリア的恋愛のススメ (文春文庫)』(Kindle版)、文藝春秋

なんで下書き(2014-07-06 22:58:35)のままだったのかわからないけれど、この際、公開しておこう。

本書の構成に従って、まずは、小話からスタートしようか。

京都タワーができたのは1964年らしいから、考えるまでもなくもう50年もあの姿で立っているわけだ。私の話は、それからは、多分10年ほどは立った頃の話だ。京都で用を済ませてその当時実家のあった奈良に向かって京都駅から近鉄電車に乗った。次の駅が東寺だが、同じ車両に乗る白人の男性二人連れがニヤニヤしながら、中指を立てて「カッツォ」とという、指差す方向は京都タワーでもちろん東寺ではない。イタリア語らしいと気が付き、同時に、彼らが何を言ったのか分かった。京都タワーはローソクに見えるというのは、日本人からみた京都にふさわしいイメージだが、タワーを建てる必要があるかという意見とともに京都にふさわしいタワーの姿なのかという意見がかまびさしく聞こえていた。
しかし、一方、思春期後期の私の同年代の友人は、あれはローソクではなく「◯◯ポコ」だと言っていたのをおもいだして、このイタリア人二人の会話に、といって、「カッツォ」しかわからなかったわけだが、思わず吹き出しそうになって、二人と目があってしまった。彼らの目配せは「なっ!」と言っているようだった。

本書は、イタリア語通訳のシモネッタこと田丸公美子さんが見聞きしたイタリア人のもろもろの男女関係を描いたエッセーだが、もちろん、デカメロンはボッカチオのそれにちなんでいることはいうまでもない。イタリア人の男女の有り様について書かれていながら、たくまずして引き合いに出される日本人の男女関係についてのエッセーになっていることはいうまでもない。グローバリゼーションの渦中にあるイタリア人と日本人、その後、いかほど変化したのであろうか。著者ほどのエッセイストを探しだすのは困難であるかと思うが、ぜひに、続編を読みたいところだ。

シモネッタのデカメロン イタリア的恋愛のススメ (文春文庫)
田丸公美子
文藝春秋

2020-06-19 12:01:09 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『マネー・ボール〔完全版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)(キンドル版)』

マイケル・ルイス、2013、『マネー・ボール〔完全版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)(キンドル版)』、早川書房

なぜか、下書きのまま(2017-07-22 14:02:40)だったので、公開しておこう。

この本をよむうち、思い出してきたことがある。子供の頃、多分小学校の中学年頃だったと思う。クリスマスプレゼント(だったと思う)として「野球盤」を買ってもらった。一人では面白くないので、近所に住むひとつ歳上の親友のみっちゃん(何度も引っ越しをしたから、中学校以来、縁が切れているのだが、どうしているだろう)を家に連れてきて、よく遊んだ。はじめのうちは、野球盤でゲームをしながら、野球の実況中継のような真似事をしていた。しかし、みっちゃんは野球マニアだったので、スコアシートを付け始めた。たかが野球盤だが、具体的なチーム(プロ野球団)と選手名(当時のプロ野球選手)を二人で贔屓のチームを用意して遊び始めた。たぶん、わたしは巨人で、みっちゃんは阪神。すごく面白かった。野球盤が壊れてしまって、この遊びは潰えたのだが、しばらくたって、わたしは、自分ひとりで遊ぶ方法を考えだした。サイコロをたしか四つ同時に投げて、その数字に従って、ストライクとかヒットとかを記録し始めた。確率なんてものはもちろんわかっていなかったけれど、これはこれなりにおもしろかったから、しばらくはこれで遊んだ。秘密の箱の中にこのセットをいれていたが、のちに、名古屋に引っ越すときに高校時代に付けていた日記とともに焼却してしまった。いまからおもえば、日記も含めて残念なことをした。

本書は、アスレチックスの革新的なGMのあらたな球団マネジメントについて、素人(野球のデータにこだわった)と玄人(慣習からの脱皮に苦労した)との競合にくわえて、統計的な手法を用いる最新の経済学と理念的なホモ・エコノミクスの経済学の対立という重ね合わせの妙をくわえ、さらには、MLBの選手たちのリアリティをくわえて描かれたドキュメンタリーで、ブラッド・ピットの主演とプロデュースによる映画化という華やかかさ付け加わっている。これを読むと、日本のプロ野球や高校野球、大学野球は何回もの脱皮を必要としているように思える。

わたしの子供の頃の遊びが、もう少しリアリティと結びついていたらと思うが、確率の芽生えのような思いつきがあったことは、とりあえずは、良しとしておこうか。

マネー・ボール〔完全版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
マイケル・ルイス
早川書房

2020-06-19 11:56:20 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )