リチャード・ブラントンのこと、同僚のIMとの会話の中で初めて知ることになった。同僚は近く彼も登場する日本の灯台を巡るエッセイ集を出版するそうだ。
ブラントンは江戸末から明治最初期に日本の西欧文化の導入に貢献した「お雇い外人」の一人で、近代日本の灯台建設と管理に携わった。とはいえ、日本への滞在期間は長期の帰国休暇も含めて7年ほどであったという。スコットランドのアバディーンに生まれ、鉄道建設に従事した技師であったが、イギリスの鉄道建設ブームが下火になる頃、日本から(開国後の徳川幕府)の要請を受けた商務省の募集に応じて採用される。スコットランド・グラスゴーの灯台建設と管理のスチーブンソン商会にて、3ヶ月の速成教育をうけて日本に赴任する。
ブラントンが日本にやってきた頃には徳川幕府は倒れて明治維新政府となっていた。伊藤博文はじめ維新政府の要人たちと交渉しながら灯台建設及び維持管理のための補給船の選定、灯台設置場所の選定、建設、灯台の機器備品の選定などに尽力する。また、ちょうど岩倉訪欧団のイギリス滞在中はかれの帰国休暇中であり、イギリス国内の各種工場などの訪問についても関係した。
もちろん、上から目線の書きぶりや日本の役人たちの行動、殖産興業についての維新政府の要人たちの考え方についてのブランドンの見解など、一方的な見方ともみえるが、それでも、明治初年頃の空気を感じることができた。