South Is. Alps
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Coromandel
Coromandel, NZ
Square Kauri
Square Kauri, NZ
Lake Griffin
Lake Griffin


『鹿の王 水底の橋』

 
著者からご恵贈いただいてから1年近くが経つ。デスクサイドにおいていたのだが、あいにく読み進めずにいた。年末から寝本にして読んでいるうちに、ようやく読了できた。ここで記しておきたいことは、本書のスジとはひょっとして違うかもしれない。でもまあ、それでもよいだろう。

わたしは若い頃ミクロネシアの小島でフィールドワークをしたことがあるが、その記憶の中で今も繰り返し思い出されることは、現地の人々の病気のことだ。もちろん、わたし自身に関わることでもあった。入域許可を得るために大きな島の役所に行った時、係官に言われたこと、それは、調査地には医療機関がなく、主要な島の病院への長い距離や離島との連絡手段もないこと、それでも行くのか、ということだった。

島での生活の中で、たとえば、連絡船がやってきて人の出入りがあるたびに、島の人々は咳をし始め、連絡船が去ったとも人々は咳を続けた。わたしは、咳をすることはなかった。また、島には慢性病と覚しい症状を示す人々が何人もいた。わたしは、従兄が医者だったので(その従兄もつい数ヶ月前癌を患い身罷った)薬を何種類も処方してもらって持参していた。役所の係官に言われたことは、あらかじめ十分承知していたのだ。しかし、わたしは医者ではない。従兄からどのような症状があった時、どの薬を使うかを教えられてはいたが、同時に、他人には使うなと示唆されてはいなかったものの、それは、無理だと思っていた。

島での生活がしばらく続いた頃(その島には半年以上滞在した)、小道を歩いていると声がかけられた。お前も薬を飲んで行けと。近所のおばさん、彼女は象皮病を患っていたのだが、腰が痛いらしいと何度もきかされていた。わたしが何やら薬を持参しているらしい事を知っていたからだろう。しかし、わたしには何も処方することができなかった。声がかかったのは、そういう経緯と関係があるわけではない。この小島の流儀では、薬は患者だけではなく、みんなで一緒に飲むものなのだと。

本書を読みながら、こうしたことが思い出されだ。本書では、主人公のホッサルが学び取っているオタワル医術は、病因を要素に分解して理解して処方する近代医学に、そして、オタワル医術を亡きものにしようとする清心教医術新派はむしろ身体と心と病気とを全体的に捉えようとする医学に比定されているように見える。じつは、清心教医術は、オタワル医術の出現に危機感を抱いた結果、精神論へと純化しようとしていた。もともと、清心教医術の創設者の出身地である花部には、精神論と身体論とが包摂された、いわば、ホーリスティックな医術を目指す古派がのこされていた。

物語は宮廷の次期皇帝を選任するという政治とどちらの医術を帝国の基本とするかという二重の権力闘争が渦巻く解決編ともいうべき物語なのだが、わたしには、著者の医学についてのイメージが興味深く思えた。ホッサルの愛人でもあるミラルは、物語の終盤でオタワル医術と精神教医術の両方を統合する道へと踏み出していくのであった。

ミクロネシアの小島での生活から40年余もたち、おそらくは、わたしの知る島の人々の多くはこの世から去っているのだろうとおもう。西洋医学と最小限の接触しかない、自給自足の生活の中での人々の暮らしが懐かしく思い出されてきた。特に、1歳ほどの子供がなくなった時、島の人々が三日三晩の挽歌を歌い、その子を葬ったあの光景は今も眼に浮かぶ。あの子はもし、近代的な病院施設をもつ場所であれば、長い人生を全うすることができたかもしれない。しかし、わたしが目の当たりにしたあの光景は幼子の全き人生であったように思えてならない。本書への共感はそうした原点と関わっている。

2020-01-02 10:54:15 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


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