19日(日曜日)、早朝から曇空で天気予報では雪が降るかも知れないとのことで心配していました。しかし、集合した10時頃、西の方からだんだん晴れてきました。集合した平生町MaxValuを10:05にスタートしました。まずは、沼八幡宮に向けて歩き始めました。この神社は、私が平生保育園の園児だった50年以上前によく遠足で来ました。当時の習成小学校そばから伸びた田んぼの一本道をみんなと行きました。
沼八幡宮の石鳥居に到着 石階段と参道を仲良く歩く
江戸時代初期、干拓前の平生は沼八幡宮付近までは海岸でした。当時の石灯台だったと言われる灯篭の山側に、沼八幡宮の石鳥居があります。その石鳥居をくぐって石の階段を登り、長い参道を通って沼八幡宮の社殿に着きました。
その社殿の前で少しばかり休憩して、今回の参加者同士で自己紹介をしました。何名かの方は今回が始めての参加です。ウォーキングの無事をお祈り後、赤子山へ登るための整備された登山道をのんびり進みました。
田布施町や平生町などから集まったウォーキング参加者
赤子山山頂まで、沼八幡宮から30分位だらだらとした登りが続きます。途中の道の脇には、杉や楢の大木があちこちに生えています。また、竹林もあります。
周りの木々を眺めながら、そして楽しく雑談しながら歩くと時間を忘れてしまいます。大人が森林浴しながら楽しく歩いている間、子供達は足元を見ながら歩いていたようです。落ち葉に隠れていたどんぐりや松ぼっくりを見つけては拾っていました。
見つけた松ぼっくりを見せる子供達 森林浴しながらのんびりと
赤子山の尾根十字路に着くと、そこから東方向に登りました。山頂までもう一息です。見晴らしの良い開けた場所をいったん通り過ぎて、頂上に向かって歩きました。潅木の中に頂上があるため、展望がなく三角だけがポツンとあります。その三角点にタッチした後、見晴らしの良い場所に再び戻りました。頂上を含む赤子山の柳井市側は、あまり整備されていないようです。
潅木に囲まれ見通しの悪い赤子山頂上の三角点にて
三角点の周りには、不思議な陥没した大きな穴がいくつかあります。また無造作に転がる石に、人の手が加えられたような窪みがありました。それらの不思議を話しながら尾根道を戻りました。そして、平生の街を見下ろせる展望の開けた南斜面でお昼休憩にしました。
頂上から尾根道を少し戻る 開けた南斜面でお昼休憩
休憩していると、平生方面から何やら放送が聞こえてきました。何かの大会のようです。今回のウォーキングに参加した私の幼友達N君の話では、周南駅伝とのこと。この駅伝は光市,田布施町,平生町,柳井市が持ち回りで主催しているようで、今年は平生町の担当のようです。N君は、中学生の時にこの周南駅伝に出場したことがあるそうです。彼はその後大学でキャプテンとして箱根駅伝にも出場したので、駅伝に関わる行事や放送は気になるのでしょう。
見下ろした平生の町並み、周南駅伝の放送が聞こえてくる
お昼休憩をした南斜面には桜の木が植えてありました。それらの桜を傷めないように避けて座りました。そして、ザックを下ろしてお弁当を広げました。眼下に広がる平生の町並み,平生湾,瀬戸内海などを見ながら談笑しました。私はN君の隣に座り、駅伝の話,子供の頃の話,昔の平生や田布施の話をしながら楽しくお昼休憩しました。お昼休憩して30分過ぎた頃から、にわかに曇空になり、ちらちらと雪が降り始めました。
眼下の平生の町並みを見下ろしながら、楽しいお昼休憩
ちらちら雪が降る赤子山を降りました。天候が悪くなり雨が降れば、登ってきた沼側に降りることにしていました。しかし、ちらちら雪ですので予定通り尾根十字路を余田側の中村林道に下りました。赤子山の北側斜面はこんもりと木が茂っています。やや薄暗い山道をひたすら下りました。
薄暗い赤子山北斜面をひたすら下る 積もった落ち葉で滑りそう
20分位下ると中村林道に着きました。着いた場所からは、柳井市のウェルネスパークやフラワーランドが良く見えました。この頃になると、雪がおさまり再び日が照るようになりました。中村林道は人通りがとても少ない林道です。12月に下見した時もそうでしたが、今回も軽トラにも人にもすれ違いませんでした。両側を木々や竹林に囲まれたとても静かな林道を、談笑しながらのんびり歩きました。
中村林道から柳井市のウェルネスパークやフラワーランド方面を見て
私が高校生だった40年位前、クラス全員で赤子山北面の学校林に下草刈りに来たことがあります。その時に通ったはずの山道の一つが、今の中村林道として整備されたのではないかと思います。あるいは柳井湾に火力発電所を作った時、光市方面に送電するために建設した鉄塔に併設して中村林道を作ったのかも知れません。なお1年ほど前、柳井市の臥龍梅を見るために中村林道を通った時、昭和50年に中村林道が作られたとの碑がありました。
両側を竹林や樹木に囲まれた静かな中村林道
静かな中村林道には、道路が見えないほど落ち葉が大量に残っていました。そして、栗やどんぐりがまだ残っていました。大人は談笑しながら歩いていましたが子供達は落ち葉が楽しいのでしょう、落ち葉を蹴散らしながら,栗やどんぐりを拾いながら,そして歓声をあげながら歩いていました。
しばらく歩くと、柳井方面から田布施に抜ける舗装道路に出ました。車が通るので一列になって、松風苑に向かいました。下見の時にトイレをお借りできるようお願いしていたため、すんなりトイレに通していただけました。トイレをお借りした松風苑の丁寧な対応に感謝いたします。
落ち葉を投げ散らかし遊ぶ子供達 トイレをお借りした松風苑に感謝
松風苑を出た後、車が行きかう車道を一列になって歩きました。歩きながら年配の方々は「入れるように今から予約しておこうか」などと冗談を言いながら、松風苑の話をしていました。私も年齢的には20年後には松風苑のようなデイサービスにお世話になるかも知れません。今の私には他人事とは思えません。10分位歩くと、柳井市余田から平生町竪ヶ浜の荒木地区に入りました。
トイレ休憩した松風苑などの話をしながら、一列になってウォーキング
荒木地区に入ると、最初に荒木神社にお参りしました。私は特に信心深い方ではないのに、神社の前に立つとお祈りをしてしまいます。荒木神社を過ぎると、威勢の良い声とキャッチボールの音が聞こえてしました。熊毛南高校野球部の部員が元気に練習をしていました。私が通っていた頃より運動場が広くなり、施設も立派になっています。
熊毛南高校すぐ東にある荒木神社 熊毛南高校野球部員の練習を見つつ
熊毛南高校からは、荒木川沿いに上流に向かう小道に入りました。しばらく進むと、屋根が付いた大きな壷のようなものが畑にどんと置いてありました。近くに最近切った竹筒が数本置いてありました。この大きな壷に見えるものは、竹炭を作るための釜です。陶器などを焼く釜とは形状がまったく違います。釜の傍らには、ソバを脱穀した後に残った茎殻が置いてありました。
続いてさらに山に向かって歩きました。すると、遠くに白いものが動き回っていました。山羊です。大人の山羊や子山羊がたくさんいました。どんな動物もそうですが、動物の子供は可愛いものです。近寄ってきた子山羊を、子供達が珍しそうに見ていました。
後ろに、竹炭を作るための大きな壷状の釜 近寄る子山羊に手を伸ばす
山羊を見終わると、竹炭を作る釜まで戻りました。その途中、Yさんがハゼの実を見つけました。Yさんは、田布施町のハゼの実ロウ復活委員会の会員のようです。私も去年の夏、ハゼの実ろうそく祭りでYさんからハゼの実で作った和ろうそくを買いました。Yさんがみなさんに、ハゼの実のどの部分がろうそくになるのかなどを解説していました。Yさん、臨時勉強会ありがとうごさいました。ウォーキングしていると、偶然のきっかけでこのような楽しい臨時勉強会になることがあります。
ハゼからロウを集めて和ろうそくにするまで、大変な労力がかかったことだろうと思います。この和ろうそくは、幕末長州藩の4大産品の一つでした。4大産品とは、塩,紙,米,そして和ろうそくです。
ハゼの実を手に取って、和ろうそくに関わる説明をしているYさん
ハゼの実と和ろうそくの臨時勉強会が終わると、山を下って大歳神社に行きました。これで、三社目のお参りです。この神社から見下ろす竪ヶ浜に、江戸時代初期まで海岸線があったことなどのお話などをしました。当時、竪ヶ浜の前に広がっていた海を竪ヶ浜浦と呼んでいたようです。田布施から平生に向かう旧道は、かつては海岸に沿う道だったのではないでしょうか。当時平生は影も形も無く、海が広がっていました。わずかに野島と玖珂島が海に浮かんでいたようです。ウォーキングしながら、いしえの地形に思いをはせてみました。
江戸時代初期の平生 沼が「野間」,余田が「与田」となっている
※『平生町史 第2-27図 開作以前の宇佐木・大野一帯
「享保増補村記」絵図による。』 より抜粋
大歳神社を過ぎると、最後に磯崎地区の高台に行きました。高台から玖珂島や野島方面を見ながら、江戸時代の平生のお話をしました。磯崎の山などを削りながら干拓したお話や、江戸時代には大野毛利と岩国藩余田の境が野島と玖珂島の間にあったらしいことなどのお話もしました。
磯崎の高台から下りてしばらく歩き、平生MaxValuに帰着しました。みなさんお疲れ様でした。
大歳神社の社殿 もうすぐMaxVluに到着
==========健康ウォーキングクラブ==========