T氏の家の周りはとても良く手入れがされていました。一人でこの山中を維持するのはとても大変だと思います。家の横には各種農機具が置いてあったので、かつては家族多数で住んでおられたに違いありません。T氏の家を出ると石城大師堂に行き、駐車場前の舗装道に出ました。次に、南水門傍の廃家ビルとなっている展望所に行きました。その展望所は、私が子供の頃は観光名所でお店もありました。しかし今、暗い木立の中に幽霊屋敷のように建っていました。屋内にお店らしき跡も残っていました。
とても綺麗に手入れされている、T氏の家とその周辺
次に南水門に降りてみました。すると、すっかり土砂で埋まっていました。私が子供の頃は、立派な水門が口を開けていました。各水門の中で、一番大きく立派な水門だったと思います。この水門が土砂で埋まった理由は、駐車場や展望所に車を通すために水門のすぐ上に土を盛って道路を作ったためです。その道路の斜面が崩れて土砂となり、南水門をふさいでしまったのです。観光開発の失敗の一例です。
南水門を見学すると、その谷筋の上流にあった山本宅跡を訪ねました。すると、かつてあった家や畑などが竹で占領されており、崩れた家跡がありました。
廃ビルの展望所跡 土砂で埋まった南水門 東坊を示す木柱
続いて、日本神社に向かう坂を登って高日峰に向かいました。残り時間が少なくなったため、眺望がとても良い高日峰には登らず東水門に向かいました。その途中に東坊跡を示す木柱がありました。さらに降りると、私が知っていた中岸坊跡を示す木柱がありませんでした。その近辺の笹薮の中を探し回ると、中岸坊跡を示す木柱が笹の下に倒れていました。私が発見しなければ、人知れず土に変えるところでした。
笹薮の中に発見した中岸坊跡の木柱 東水門と版築石組
中岸坊跡付近は、かつて上段方面に降りる波野口がありました。今その下り道は藪となっているため通れません。その中岸坊跡を北に向かうと、東水門とそれを取り囲む立派な石垣があります。この東水門周辺の石垣は、朝鮮式石積みと言われる工法を色濃く残しています。一種レンガのような石を、何段にも積んで作られています。そして、その上には版築工法で土が盛られているのです。
朝鮮式石積みと言われる工法が良く分かる石垣、個人的に一番好きな場所
東水門を見終わると、神籠石に沿って北門へ向かいました。北門にも石垣が残っているのですが、ここには古代に門があった証拠の巨大石が二つ残っていてます。門の礎石に使ったと思われる沓石です。人工的に刻まれたことが明確な石です。古代どんな門が設置されていたのでしょう。馬や荷馬車が通れるような巨大な門だったのでしょうか。
東水門(山姥の穴)を覗く 北門跡に到着 この沓石が二つ
ところで、江戸時代後期に書かれた風土記「防長風土注進案」に、石城山についての記録がたくさんあります。18の宿坊や神護寺について書かれています。そして、古代朝鮮半島の百済国にも石城山と呼ばれる山があったそうで、光市の石城山との関係を示唆している記述があります。さらに、百済聖明王についても書かれています。これらの記述の真意のほどは私にはよく分かりませんが、今回調査した石城山は、古代において朝鮮半島と深く関わりがあったことは確かなようです。
石城山の宿井口途中から東側柳井方面を見下ろした景色(古代は海)
古代において石城山の東側と南側は海峡(唐戸水道とも)
古代朝鮮半島では、山頂を石垣で鉢巻状に取り囲む形式の城が多く作られたようです。朝鮮から渡来した人々の一部が、当時の田布施周辺に住んでこれらの技術を伝えたようです。渡来した人々が住んでいた言われる場所の一つが、平生町の海辺にある百済部地区です。
当時、古代朝鮮国家と大和朝廷はさかんに行き来していました。古墳がとても多い当時の田布施は、その流通の一部を担っていたのかも知れません。その拠点などを守るため、石城山に神籠石が築かれたのではないかとも考えられます。当時の人々が、どんな言葉を話し,どんな衣服を着て,どんな船に乗って,どんな暮らしをしていたのかなど、そしてその後の日本にどんな影響を与えたのかなど、興味は尽きません。
石城山に分け入って史跡を散策したコース