2年位前の真夏に光市の石城山をウォーキングしました。今回、久しぶりに石城山(いわきさん)をウォーキングすることにしました。前回は小学低学年生が参加しましたので、オーソドックスな神社巡りと神籠石巡りをしました。しかし、今回は大人三人ですので、あまり歩かれない場所を散策することにしました。
石城山は江戸時代以前、西の高野山と言われたほどの大規模な寺や宿坊があったそうて゜す。ちなみに、宿坊はお坊さんや一般人のために作られた宿泊施設で、僧坊はお坊さんだけのための宿泊施設だそうです。石城山では、神護寺を中心に18もの宿坊や僧坊がありました。今回、その宿坊や僧坊を探すため石城山の山中に分け入りました。
仁王門下方にあった宿坊:立石坊跡 立石坊下の宿坊:胎蔵坊跡
まず初めに、仁王門から下に伸びる古道(ほぼ獣道)を降りました。降りてすぐの場所に立石坊があった平らな場所に行きました。その場所には何も残っていませんでした。柱などの木材類はこの150年の間に土に返っていました。また、礎石のようなものは探しましたが分かりませんでした。土に埋まっているのか、もともと無かったのかも知れません。そして、瓦がないか探しましたが、全くありません。当時、宿坊は全て茅葺きだったのでしょう。
藪に囲まれた、山本坊跡近くの古道
立石坊下の胎蔵坊に行ってみましたが、立石坊と同じように何もありませんでした。数十年間も育つ杉が空に向かって何本も立っていました。さらに古道を降りると、棚田と思われる石垣がいくつもありました。もしかして、この場所でお米を作っていたのではないでしょうか。ちなみに三国志城の故谷さんは、石城山の南水門傍の山本家の出とのこと。18もの宿坊を維持するには、食料,通信,荷駄などに関わる人々がいたはずです。山本家の先祖は山本坊に住み込んで、神護寺に関わる仕事をしていたとの話を聞いたことがあります。
棚田だと思われる石垣 弐檀坊を示す木柱 イノシシのぬた場
山本坊付近は広い田んぼだったように思えます。棚田のような遺跡が数多くみられます。いつの時代の棚田かは分かりません。石積みの方法を見ると、神籠石のような石積み工法ではないので、古代の石垣ではないように思えます。神護寺が創建されて以降に作られたのではないでしょうか。
古道をさらに下っていると、不思議な道が見つけました。最初、こんな場所にどうして道があるのかと思って、その道をたどって行くと、ぬた場に着きました。その道は、ぬた場でパタリと消えていました。その道をよく見ると、イノシシの蹄跡が無数にありました。この道は、実はイノシシが行列になってぬた場に通う道だったのです。
一条坊を示す木柱 北水門の神籠石 北水門の北谷坊を示す木柱
イノシシのぬた場を過ぎてすぐの場所に一条坊を示す木柱がありました。これまで発見した、宿坊を示す木柱はどれも朽ちていました。どの木柱にも墨書きの跡がありました。書かれている内容は、「神護寺 宿坊跡 〇〇坊」と統一されて墨書きされています。ある木柱に、この柱を建てた日付が書かれていました。しかし、「〇〇年二月」としか分かりませんでした。
幕末の頃、この石城山に第二奇兵隊が駐屯していました。18ある宿坊に分散して泊まっていたのでしょう。当然、これらの奇兵隊員の世話をする人や家族もいたはずです。その家族の一つが山本家だったのではないでしょうか。谷さんが亡くなった今、確認するすべはありません。
石城山に分け入って史跡を散策したコース