東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町 木地~坪曽の古道(大内街道)調査のため行者山北麓を探索

2016年03月29日 | 歴史探訪他ウォーキング

 午後1時半に田布施町中央公民館前に、地方史研究会会長のH氏を始め4人が集合しました。木地からは地元の方が1名加わりました。今回は、木地から行者山北麓を通って大波野坪曽に抜けたとされる古道(言い伝えでは「大内街道」と呼ぶ)を調査しました。地元の方の案内で、木地からスタートしました。古道の入口はすっかり木が茂っていて、地元の方でないと気が付きません。

  古道(大内街道)の入口     深くえぐれた古道      途中に焼場らしき跡
  

 大内街道をどんどん進むと、途中に焼場跡とおぼしき跡がありました。その付近を見渡しましたが、建物などは全て腐り果てて何も残っていませんでした。しばらく行くと、竹が生い茂っている場所に出ました。このあたりから道が分からなくなりました。倒れた竹を跨ぎながら進んでいると、行者山の北山麓の尾根に出ました。はっきりとした道が無く、あちらこちら古道がないか探しました。

               倒れた竹を跨ぎながら、行者山の北山麓尾根に向かう


 尾根に出ると、獣道か林業道のような道を北に向かって進みました。尾根を一端下がって、山の上に出ると、イノシシの大群(10頭位)がいました。私を見ると、一斉に反対方向に音をたてて逃げて行きました。昼間でもイノシシは活動するのですね。イノシシがいた山頂には、小さな塚のようなものしかありませんでした。さらに尾根伝いに進むと、巨岩群が鎮座する山頂に出ました。道はたくさんあるのですが、イノシシが通る獣道なのか古道なのか見た目では分かりません。その尾根をさらに北に進むと、惣津の妙見社に着くのではないでしょうか。

  巨岩群が鎮座する山頂     標識がある古道に出る      枯れた溜池跡
  

 地図上では、その山頂付近から少し戻った尾根から東に向かえば坪曽のはずです。道がはっきり分らなくても、とにかく東に向かえば、坪曽のどこかに着くだろうと谷をどんどん下りて行きました。険しい谷をどんどん降りていると、白い標識を見つけました。

                溜池や棚田を支えている立派な石垣


 この標識が立っている場所にははっきりとした道が通っていました。さらに、自分が降りてきた谷方向を振り返りました。すると、えぐれたような古道があるではありませんか。沢すじの谷は崩壊しやすいため、古道が崩れてしまった可能性があります。また、お地蔵様が安置されたのではないかと思われるような土台のような石が、その古道のそばにありました。周りを探しましたが、お地蔵様を思わせるような石はありませんでした。

    巨大な岩と言うか、岩の崖            やっと坪曽の集落に出る
 

 白い標識が立っている道を降りていると、枯れた溜池がありました。その溜池周辺の棚田跡をぐるりと調査していると、上の方に巨大な岩の崖が見えました。その崖の直下に行ってみました。その岩の崖は大きくえぐれているのですが、崩れているのか採石場跡なのかは分かりませんでした。
 その岩の崖を降りて、再び道に戻って下っていると坪曽に出ました。その場所は、坪曽の北端でしょうか。今回は行者山の道なき北山麓を歩きました。途中、イノシシの大群に出会ってビビりましたが、無事に木地から坪曽に抜けることができました。しかし、どの古道が大内街道なのか確定できなかったのは少々残念でした。今回の調査に参加された方々、お疲れ様でした。

        木地~坪曽の古道(大内街道)調査ため探索した行者山北麓

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