東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

平生町佐賀漁港周辺の史跡巡りウォーキング(3/3)

2024年01月31日 | 歴史探訪他ウォーキング

 佐賀漁港に着いた頃、ちょうどお昼でした。そのため、馬島~佐合島連絡船の佐賀渡船場を目の前に堤防を背にしてお昼休憩にしました。風が強くやや肌寒かったのですが、堤防前は日差しが当たってポカポカしていました。皆さんと雑談しながら昼食をとりました。私はいつものようにコンビニのおにぎりとお茶でした。

     渡船場を前に堤防を背にして、日向ぼっこしながら昼食休憩


 昼食休憩が終わると、佐賀漁港周りを散策しました。向い側の堤防には船の安全を祈願するお社がありました。昔は今よりたくさんの船がこの漁港を出入りしたはずです。私の記憶では、昔佐賀ではたくさんの「いりこ」を生産していました。大きな紙袋に入ったたくさんの「いりこ」をよく覚えています。50年位前のことです。
 高校卒業後に東京で暮らしていた時に「いりこ」をさがしました。いくら探してもありませんでした。ところが、ひょんなことで「いりこ」が東京では「にぼし」と呼ばれていることを知りました。「いりこ」は方言なのでしょうね。

 佐賀漁港の巨大な鳥居   平生町漁業協同組合    渡船場向いのお社
  

 渡船場を見終わると、佐合島出身の久保白船の事が書かれている碑がありました。久保白船,麻郷の江良碧松,そして種田山頭火の三人は、自由律俳句で周防三羽烏と言われていました。かれらは私の祖母とほぼ同じ年の生まれです。江良碧松は私が子供の頃、農家をしていました。
 ちなみに、江良碧松の家を継いだ息子は私の父親と林業組合で働いていました。当時の私は、まだ元気だったはずの江良碧松をまったく知りませんでした。出会えたはずなのに惜しかったです。

   膝や腰を直す足摺り地蔵様         お地蔵様隣のお堂
 

  巨大な鳥居や人数が少ない平生町漁業協同組合を見ながら海岸線を南に歩きました。すると、広い埋め立て地がありました。バブルの頃に何かの工場か建物を建てるために埋め立てたのでしょう。
 その後、足摺り地蔵尊にお参りしました。最近膝が思わしくないので、お地蔵様をさすった手で自分の膝や足をさすりました。よく見るとお地蔵様はつやつやしていました。みんながさするのでつやがでたのでしょう。いつまでも歩けるようにお祈りしました。その後、バス停に向かって歩きました。参加した方々、お疲れ様でした。

       佐賀漁港周辺の遺跡巡りをしたウォーキングコース

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