一年ぶりの麻郷 高塔 祇園牛頭天王社の祭典です。今回は、少しばかりですがお手伝いをすることができました。去年の祇園牛頭天王社の祭典でも思いましたが、私が子供の頃の祭典はとても質素でした。ポン菓子や綿菓子などはなく、旅回りの人形使いの芸などが披露された後に子供たちはお菓子をもらってすぐに解散していました。
高塔地区は当時より人口が約3倍になった上に若い人も増えたので、それに合わせて祭典の規模が大きくなったのでしょう。8年前に今のような形式の祭典にしたそうです。
私も天幕の準備をお手伝い 綿菓子も事前に作り置き
祭典の初めは祠の前で、今年小学校の新一年生になった7人が健康で良い子に育つように、高松八幡宮の宮司さんにお祓いを受けました。そして、今回の祭典の準備をした役員の方々、続いてこの高塔地区に住む方々にお祓いがありました。
新一年生,祭典の役員,高塔地区の方々にお祈りする宮司さん
ところで、この祭典を準備していて、昇りの赤い大旗に父親の名前が書いてあるのに気が付きました。父親が42歳(昭和41年)私が中学生の時、この祭典に寄贈した旗と思われます。父親は当時以前から、高塔地区盆踊り大会,子供会のバス旅行などをよく企画していました。そのころから既に、この祭典にも父親が関わっていたようです。
祭典の役員などの方々へのお祓い 祠をとりまいている高塔地区の方々
お祓いが済むと、新一年生7人による植樹です。毎年ツバキの苗を植えているとのことで、去年植えたツバキはすでに赤い花を咲かせています。今年植えたツバキも順調に根付けば来年綺麗な花を咲かせてくれると思います。新一年生が大人になった時、今回植樹したツバキは大木に育っていることと思います。
照れながらツバキの苗に土を寄せている、新一年生達
植樹が済むと、楽しいお祭りの始まりです。子供たちの大好きな、ポン菓子,綿菓子,そして大人にも美味しいぜんざいが配られます。私もチョコバナナのような簡単な何かを作ろうかと考えていましたが、今回はお手伝いだけにしました。
ポン菓子を袋に詰め配る方々 ポン菓子を作っている方々
今回のお祭りのメインイベントは、聖獣天神リュウガのアクションショーです。先週7日のたぶせ桜まつりでも似たような恐竜ジャーを見ましたが、今回の聖獣天神リュウガは、子供達の手が届くような目の前でのショーです。最初、なまはげのような悪役が出た時に、思わず逃げたり泣いたりした子供達がいました。手が届くような近くでの劇は迫力が違います。
子供達の目の前で、聖獣天神リュウガのアクションショー
聖獣天神リュウガのショーが演じられている間も、綿菓子,ポン菓子,ぜんざいが配膳されていました。簡単な朝食でしたので、よけいポン菓子やぜんざいの白玉が美味しかったです。ただ、ワインも飲んだので少しふらふらになりました。
午後2時からのウォーキングのミーティング、いつもはバイクで行くのですが、今回はアルコールが入ってふらふらでしたので、久しぶりに自転車で行きました。アルコールが入っているので、特に上り坂が辛かったです。次回から、お祭りでのアルコールを控えようと思いました。
美味しいぜんざい、ご馳走様 器用に綿菓子を作る子供達
鳥居に文政11年6月吉日(1828年)の年号が書かれていますので、江戸時代にはすでに祇園牛頭天王社があったことが分かります。私が高校時代(1970年頃)にこの祠や鳥居を調査したことがあります。鳥居に、世話人が吉田藤兵衛と刻んであります。文政年間当時の上関の豪商吉田家のようです。今回の祭典は、鳥居の年号から逆算すると、少なくとも185年(1828~2013)にわたって脈々と受け継がれているのではないかと思われます。
面白いのは、高塔の11班近くにあった人島橋、やはり文政年間に作られています。八海橋がまだ無い頃です。この橋と祇園牛頭天王社は何か関係があるのかも知れません。当時は八海から竪ヶ浜周辺にかけて海岸でしたので、今の188号線に相当する街道がこの高塔を通っていたのかも知れません。
さらに歴史をさかのぼると、スポーツセンター近くに貝塚遺跡があったことから、また城南に5世紀頃の古墳群があることから、そして高塔山にも古墳があることから(田布施町郷土館より)、この高塔地区にもそれなりの数の人が住んでいたのではないかと思われます。もしかして、その頃の人々が集まる場所の一つが、今の祇園牛頭天王社になったのかも知れません。
※高塔地区は戦前、藤尾地区と鳴子田地区でした。戦後人口が少なかったためか、二つの地区を合わせた上で、高塔山から「高塔」を取って高塔地区と名付けたようです。古い地図ではこの付近が藤尾と書かれています。この藤尾と鳴子田の二つの地区名は、固定資産税の地番として今でも使われています。
お祭りの後片付けをしている方々、ご苦労様でした
数日前、ナラとクヌギ林,そして駐車場の草刈りのお手伝いをしました。今回は祭典の前日に、ポン菓子作りのお手伝い,綿菓子機の借り出し,そして幕張りのお手伝いをしました。午前10時にお手伝いの方は集合でしたが、連絡が悪かったようで午前中のポン菓子作りは実質的にできませんでした。
ポン菓子機械のセッティング たらいやバケツ等の水洗い
ところで、去年(11月18日)のクリーン作戦の時に植えた花の苗が、花壇で綺麗に咲いていました。ポン菓子作りを手伝っている時に、咲いている花に気がつきました。パンジー,ビオラ,キンセンカなどが色とりどりに咲いていました。元麻郷公民館長のA君が、「公民館で作った苗などを各地区に配っている。」との話を思い出しました。これら綺麗に咲いている花を見ていると、心がなごみます。
春の花が咲き乱れる花壇傍に、水洗いしたバケツなどを天日乾燥
午後からポン菓子作りを始めました。しかし、圧力メーターに通じる穴が詰まっているため熱しても圧力が分かりません。このため爆発させるタイミングが分かりません。適度に爆発させると焦げ目のついたポン菓子になりました。なかなか白いポン菓子ができません(味は甘く美味しいのですが)。途中から私は幕張り作業のお手伝いをしましたが、4時頃に来客があるためお手伝いを止めて帰宅しました。準備の方々、ご苦労様です。
明日はいよいよ、本番の祇園牛頭天王社祭典です。8時半頃に行ってみようと思います。そして、2時からウォーキングクラブのミーティングがあり、前回の反省,次回ウォーキングの説明,そして新しい方の紹介などをします。忙しい一日になりそうです。
お米一升をポン菓子機に入れる 焦げ目の付いたポン菓子
パラグライダー基地で雄大な景色を見ながらの休憩が終わると、高照寺山頂上に向かいました。パラグライダー基地から道を戻り、頂上への道を進みました。バイクで5分程度で、頂上に着きました。しかしながら見晴らしはそれほどでもなく、巨大なアンテナが景色を邪魔をしています。この高照寺山周辺の頂上は、みんなアンテナが占領しています。少しがっかりしました。
パラグライダー基地と頂上の分岐点 巨大なアンテナが占拠する頂上
頂上からの見晴らしは、巨大アンテナのせいで限定されています。西の方向を見ると、玖珂の町並みが眼下に見えました。しかし、霞のためにややぼんやりとしか見えません。ところどころ屋根からの反射で光って見えます。もう少し晴れていれば、鉄道や高速道路が見えるはずなのですが残念です。
霞のため、ぼんやりとしか見えない玖珂の町並み
玖珂の町並みのさらに向こう側を見ると、周防灘が見えました。光っているので海があるのがかろうじて分かるという程度の見え方です。目をよくこらすと、海に伸びている太華山らしき半島が見えました。
はるか西には周防灘、そして東には瀬戸内海が広がって見えます。この高照寺山頂上は、周東地区が半島であることが体感できる貴重な場所の一つです。
はるか西の方向に、わずかに光って見える周防灘
高照寺山頂上から東の方向は、眼下に通津の町並みがよく見下ろせます。遠く瀬戸内海の島々も見えました。天気が良ければ四国も見えると思われるのですが、今回は見えませんでした。また南方向には、去年の夏に行った銭壷山頂上がよく見えました。その向こうに、大島の東側が張り出すように見えました。
眼下に広がる通津街と瀬戸内海 銭壷山と、その向こうに大島
高照寺山頂上には巨大なアンテナ施設に隣接して小さな広場があります。その広場には長椅子が一つ置いてありました。少し休憩後、次に高照寺山グリーンパークを散策してみることにしました。地図が無いので手探りの散策となりました。
頂上からのグリーンパーク入口 展望台がある見晴らしの広場
頂上から下りたところに、高照寺山グリーンパークの入口がありました(※後で分かったのですが、入口ではなく高照寺山頂上側への出口)。その入口から、最初に見えた広場に行ってみました。広場の入口に「見はらしの広場」と書いてあったのですが、展望は期待外れでした。むしろ、すぐ近くのアンテナ施設の方が元々は見晴らしが良かったように思います。この高照寺山周辺は、一番展望が良い場所をアンテナ施設が占拠しています。
それほどでもなかった「見はらしの広場」の展望
展望がそれほどでもない「見はらしの広場」から後ろを振り返ると、頂上のアンテナ群が見えました。また、広場の先にもアンテナ施設がありました。この高照寺山はアンテナがたくさんあります。岩国の米軍基地関係のアンテナもあります。眺望の良い場所を全てアンテナが占拠しているのは残念。
「見はらしの広場」から振り返った頂上 「見はらしの広場」先のアンテナ施設
次に、高照寺山グリーンパークの駐車場に向かいました。高照寺山ふもとから頂上を経て「見はらしの広場」まで、舗装が時々途切れる荒れた林道でした。しかし、「見はらしの広場」からの下りは一転して見事な舗装道路でした。下っている途中に「泉の広場」がありました。ちょっとした砂防ダム状のものがあり、その上にため池がありました。この付近は山の北側に面しているためか、肌寒く新緑がまだまだでした。
まだ新緑が少なかった、ため池と泉の広場
頂上付近は、電波の中継などのアンテナ施設がたくさん占拠
このSONY製トランジスタラジオ TR-610の修理履歴です。それぞれをクリックしてください。
修理(1/6) 修理(2/6) 修理(3/6) 修理(4/6)
修理(5/6) 修理(6/6)
小雨が降って農作業できないため、休んでいた古いトランジスタラジオの修理を再開することにしました。まずは、まったく音が出ない原因を探しました。スピーカーに耳を当てて、雑音でもよいので音が出ていないか確認しました。しかし、全く音が出ていません。電源が何らかの原因で入っていないようです。次にボリュームのスイッチを入り切りします。スイッチの接触不良で電源が入らない故障が少なからずあるためです。しかし、何の反応もありません。そこで、イヤホン端子をチェックしました。たまにイヤホン端子の接触不良でスピーカーから音が出ない故障があるからです。
ラジオのイヤホン端子を取り外す、コ型の紙は何のためでしょう?
イヤホン端子の接触不良を確認するため、イヤホン端子を取り外しました。取り外していると、金属ワッシャーの間にコ型の紙がはさんでありました。何のためでしょうか?絶縁用にも見えないし、イヤホン端子が容易に外れないためのバネワッシャーの代わりではないかとも思いますが私には分かりません。当時、バネワッシャーは無かったのでしょうか。イヤホン端子にこのような紙部品を挟んでいる例を見たことがありません。
イヤホン端子の接触を確認するため、実際にイヤホンを差し入れしてみました。見かけ上はまったく正常に見えます。念のため、接触箇所を尖ったドライバーで擦って磨いてみました。すると、蚊の鳴くような小さな音がスピーカーから出るようになりました。音が出ない原因は、音声電流をイヤホンからスピーカーに切り替えて流すための接点不良でした。接点に積年のゴミが詰まったためだと思われます。
イヤホンを挿入すると接点が開く 閉じた時に接触不良
少し音が出るようになったため、電子回路が正常かどうかのチェックをすることにしました。私は、電子回路を大きく三つのブロックに分けてチェックします。1つ目は周波数変換部、二つ目は中間周波数部、3つ目は低周波増幅部です。
最初にSGで1000HzでAM変調した電波を出しました。そして、自家製のシグナルトレーサーで各部を調査しました。すると、どの場所でも音が出ませんでした。初段の周波数変換部が故障しているようです。続いて455KHzの電波を出して、中間周波数部の先頭に注入してみました。すると、検波後にきれいな変調音を確認できました。中間周波数部は正常のようです。次に低周波増幅部に音を入れてみましたが、スピーカの音は小さいままです。低周波増幅部も故障しているようです。結合コンデンサやバイパスコンデンサに使われている電解コンデンサの容量抜けが一番に考えられます。
シグナルトレーサーで電子回路の各部をチェック
次に、故障していると思われる周波数変換部の周りを細かく目視チェックしました。すると、ロウで固定してあるはずのアンテナコイル末端四本の線がもつれてショートしているように見えました。そこで、ろうの部分に熱を加えてアンテナコイルの末端が重ならないようにほどきました。そして、再びシグナルトレーサーで確認すると、今度はきれいな1000Hz正弦波の変調音が出ました。やはりアンテナコイルのショートだったようです。 念のためオシロスコープで中間周波を確認すると、中間周波455KHzが1000Hzできれいに変調されている波形が出ました。
アンテナコイル末端部分を加熱 きれいな波形の中間周波
あとは低周波増幅部の故障を直せば良いことになりますが、その前に受信周波数範囲を正確に測定してみました。すると、1,650KHz~480KHzでした。規格の1,605KHz~535KHzから少しずれています。特に低い方がよりずれていました。今のところ、その原因は不明です。
次に、低周波増幅部の修理をしようと思います。
高い受信周波数1,650KHz 低い受信周波数480KHz
中学高校時代の同級生3人と、大波野のうどん店に集まり談笑しました。そしてうどん店を出た後、東田布施小学校周辺の史跡を訪ねるミニウォーキングをすることになりました。そのミニウォーキング案は、私が数ヶ月先に実施する田布施川沿い史跡巡りコースの一部を確認するために提案したものでした。東田布施小学校近くの東田布施公民館に車を止めて出発しました。
東田布施公民館の線路向かいの東田布施小学校
最初、東田布施小学校を遠目に見ながら歩き始めました。私は麻郷小学校の生徒だったのですが、この小学校に何度か来たことがあります。まだ、木造だった東田布施小学校を覚えています。線路がすぐそばにあるこの小学校から毎朝、蒸気機関車やブルートレインが走るのが見えました。
当初、東田布施小学校から専福寺にまっすぐ向かう予定でした。ところが、「同級生Kさんの家はどこだっただろう?」の話から、「Kさんの家を探してみよう。」とのことになりました。さらに「Kさんを訪問してみよう。」になりました。そこで訪問すると、なんとKさんとお母さんが在宅していました。お互い懐かしびっくり、家の中に招かれました。
ここがKさんの家かなあ? 左から、Yさん,Kさん,N君,Eさん
Kさんと皆で、若い頃の思い出などを語り合って楽しく過ごしました。私にとって約40年ぶりのKさんは、昔のままの話しぶりや身振りでした。Kさんがよければ、今後のウォーキングに招待してみようかと思っています。
Kさんの家を出ると、目的地の専福寺に向かいました。途中の田畑は一面春爛漫でした。田んぼにはレンゲが咲いていました。Yさんは子供の頃、レンゲで花輪を作ったことがあるそうです。そう言えば数年前、私も田んぼでレンゲのピンクの花とクローバの白い花を組み合わせて花輪を作って小さな女の子にプレゼントしたことがあります。
田畑の花を見ながら散策、専福寺の門が目の前に
専福寺前に明治維新の碑がありました。この専福寺は一時、第二奇兵隊の駐屯地だったとのことです。幕末当時、この第二奇兵隊は隊名や駐屯地が目まぐるしく変わっています。戊辰戦争で亡くなった隊員は田布施町鳥越の麻郷護国神社に祀られ、今も慰霊祭が行われています。しかしながら、祀られている方の数はそう多くありません。かなりの方は脱走事件などの内紛で非業の死をとげたようです。第二奇兵隊の史跡を訪ねると、戊辰戦争での活躍と共に重苦しい歴史も感じます。
専福寺の第二奇兵隊碑 ログハウス横を通って東田布施公民館へ
このミニウォーキングで、だいたいのルートを知ることができました。数ヶ月後の田布施川沿い史跡巡りの一つでは、城南の後井古墳などを見た後に行者山に登り、その後専福寺を経由して田布施街に向かうルートが良いかな、などと考えています。
今回は、専福寺に至るルートを知ることができた上に、とても愉快なミニウォーキングでした。
今回歩いたミニウォーキングのルート
去年5月、田布施町 麻郷 高塔地区の祇園牛頭天王社の祭典がありました。今年は4月14日に開催されます。去年は山口に帰ったばかりでしたので、何もお手伝いできませんでした。今年は、微力ながらお祭り前の草刈りをお手伝いしました。主だった場所はすでにどなたかが刈り取った後でしたので、私は、ナラ,クヌギ林の下草刈りと仮駐車場の草刈りをしました。
ナラ,クヌギ林の下草刈り前 ナラ,クヌギ林の下草刈り後
午前中は、ナラ,クヌギ林の下草刈りをしました。このナラ,クヌギ林は、私の父親が植林した林です。草刈りしていると、父親のものと分かる植林の痕跡がたくさん残っていました。
植えてから数年経っているため、だいぶ枝が伸びていました。下草を刈り取った後、余分な枝を剪定しておきました。数年後このナラ,クヌギを伐採して、子供達にしいたけ作り体験をさせたらいいなと思っています。しいたけ作りには、なるべくまっすぐな幹が必要です。まっすぐにするために枝の剪定は欠かせません。
余分な枝がたくさん生えた木 枝を剪定してすっきりした木
ナラ,クヌギが植えてある場所は、やや日陰でだいぶ湿気があります。あまり樹木には適しない場所ですので、成長が思わしくないように見えます。このため、伐採するのは3年位先かなと思われます。
下草刈りして余分な枝を伐採、以前より明るくなったナラ,クヌギ林
午後は仮駐車場の草刈りをしました。午前中にナラ,クヌギ林の下草刈りに向かう時、たまたま世話役のSさんに出会いました。その時に話しかけられて、私が草刈りすることになりました。Sさんの話では、取材に来る車のための駐車場とのこと。けっこう広いので普通の草刈機では時間がかかります。ハンマーナイフモアを使って草刈りしました。
草刈り途中の仮駐車場 危険な側溝とそれを覆う蓋
草刈りが終わると、その仮駐車場は芝生のように綺麗になりました。これで、安心して駐車場として使えます。
ところで、仮駐車場の草刈りをしている途中、田布施町役場から頼まれたらしい工事屋さんがやって来ました。最初何の話か分からなかったのですが、仮駐車場と舗装道路の間にある側溝をふさぐ蓋のことでした。新しい蓋が祇園牛頭天王社の祭典まで間に合わないため、近くにある蓋を寄せて仮蓋にしておくとのことでした。帰る途中、その工事屋さんの件を伝えるためSさん宅に寄りました。
草刈りを終え、綺麗になった仮の駐車場
先日、柳井市伊陸の氷室山を散策したことがあります。その時、東の方角にひときわ目立つ山がありました。その時は、何の山か全く知りませんでした。氷室山から帰った後、調べてみると岩国市の高照寺山と分かりました。今回、調査の意味も含めてバイクで行ってみました。そして、何か所か歩いてみました。初めての山でしたので、思わぬ道を何か所か通りました。
高照寺山入口を示す案内とバス停 正面に高照寺山が迫る
まず、柳井市街から伊陸に向かいました、そして由宇に向かう高域農道に入りました。そして、今度は大畠から玖珂に向かう道路に入りました。入ってすぐのところに、プロ野球広島カープの2軍練習場があります。しばらくしてトンネルに入ります。トンネルを出ると、しばらくして高照寺山への案内板があります。案内板の場所から道を右折して、どんどん進み林道に入ります。
植林された杉林の間を抜ける高照寺山への林道
高照寺山を正面にして林道を進むと、やがて山と山の鞍部に着きました。そのまま下り坂を進むと岩国市の通津に向かうとの標識が立っていました。そして、左折すると高照寺山まで2.3Kmと記載されていました。そして、パラグライダーの基地があるとの表示もありました。
高照寺山へ2.3kmの標識 高照寺山への途中、視界が開ける
途中、視界が開けたのでバイクを止めて景色を見ながら休憩しました。先日登った氷室山の尖った頂上が見えました。そして、玖珂まで続く平野が広がっていました。やっぱり山は視界が良いに限ります。しばし休憩後バイクを走らすと、T字路に着きました。最初左方向のパラグライダー基地に向かいました。パラグライダー基地にはすぐ着きましたが、道はまだ続いていたので終点まで行きました。終点はアンテナ施設のようで、門が固く締まっていました。中に入ることはあきらめてパラグライダー基地に戻りました。
パラグライダー基地を通過後戻る 終点は行き止まりで、アンテナ施設か
パラグライダー基地には誰もいませんでした。すぐ近くには駐車場や仮設トイレがあるので、休日にはたくさんの人が来てパラグライダーを楽しむのでしょう。私が20代の頃、パラグライダーなるものは聞いたことがありませんでした。ハンググライダーを楽しんでいる知人が一人いたぐらいです。早く知っていれば、チャレンジしてみたのにと思いました。
高照寺山パラグライダー基地から正面に見える柳井市伊陸の氷室山
氷室山にもパラグライダー基地がありましたが、山頂が狭いため1台程度がようやく駐車できるかどうかの狭さでした。この高照寺山は山頂が広いので、駐車場も10台位は楽に駐車できる広さです。
眺めが良い、パラグライダー基地の草地 眼下に広がる玖珂につながる平野部
パラグライダー基地からの眺めは最高でした。正面には氷室山が,右には玖珂へと続く平野が,左には柳井市の三ヶ岳や琴石山が,目をこらすと大星山や皇座山が,そしてその向こうには祝島らしき島がぼんやりと見えました。大星山にポツポツと風車が立っているのが分かりました。
左から、琴石山,三ヶ岳,そして大星山、その向こうに祝島らしき影が見える
パラグライダー基地や高照寺山の頂上まではスムーズに行くことができました。しかし、事前に高照寺山そばにある高照寺山グリーンパークの地図を持って行かなかったため、その後は道が分からなくなるなど戸惑いました。
散策した、高照寺山や高照寺山グリーンパークのルート
去年田布施町のたぶせ桜まつりに初めて参加しましたが。今年もさくら祭りの季節がやって来ました。私が山口県に帰ってからもう1年も経ったのかと思いました。去年は、晴天の暖かいさくら祭りでたくさんの人で賑わっていました。しかしながら昨日、日本中が嵐のような雨でさらされました。そのため、会場の地面には水たまりがあちこち残っていました。
演劇などがあった田布施町商工会
今年のさくら祭りの最初、友達のN君が応援手伝いしている山口大学劇団笛の演劇「水の戯れ」を見ました。朝10時に始まり正午頃に終わりました。何年ぶりかの芝居でした。私にはやや難しい内容でしたが、学生さん達はよく演じていました。
芝居を見ていて思い出しました。私が八王子にいた時、近所の高校の学園祭で演じられていた芝居「12人の陪審員」が印象に残っています。元は映画だったかも知りません。会話が中心の芝居でしたが、そのどんでん返しの内容が今でも印象に残っています。
熱心に演技している大学生 終了後に出演者全員が挨拶
演劇を鑑賞している時、思いがけない方に出会いました。それは私が高校生の時に教わったY先生でした。知識を教えるだけの先生ではなかったので、とても私の印象に残っています。おそらくN君から今回の芝居に招待されたのでしょうか。少しの間ですが談笑しました。今年80歳とのことですが、熱く語るような情熱肌は健在でした。後悔先に立たずで、N君のように中学高校時代いろんな先生と交流しておけば良かったと思いました。
芝居を熱く語る、司会のN君 左から、Y先生,N君,そして私
演劇を見おわると、田布施商工会を離れてさくら祭りの会場に行きました。まずは、いろいろな露天が並んだ会場を歩きました。焼きそば,おにぎり,カキ,ハンバーグなどさまざまな食べ物を売っていました。演劇が終わったのが正午頃でしたので、お腹がすいていました。串にさして焼かれたポークウィンナーを買いました。そして、会場を散策しました。
さまざまな露天が並ぶ会場、午後から少し晴れ間が見える
蒸したカキを食べさせるお店 巨大なハンバーグを作りつつ売る店
佐世保バーガーのお店 焼き鳥,串イカなどを売るお店
昨日は大変な風と雨でした、このため地面には水たまりがたくさん残っていました。この天候不順のためか、去年よりは人の入りが少ないように感じました。悪天候で、カヌーや乗り物などたくさんのイベントが中止となったことが影響しているかものかも知れません。
地面に水たまりが残る、露天がひしめく会場
かんきつ類を専門に売るお店 お好み焼きを作って売るお店
フライドポテト,肉じゃがなどを売るお店 クレープ売り場には長い行列
昨日の風と雨でだいぶ桜が散っていました。散り残った桜の下にゴザやシートを敷いて、何家族かが花見をしながら飲食していました。田布施街に住んでいる方々は、年に一度のさくら祭りを楽しみにしているのでしょう。
桜の下にシートを敷いて、花見を楽しんでいる家族
露天をある程度見終わると、野外ステージに行きました。ちょうど、中学生か高校生のブラスバンドが演奏をしていました。その演奏が終わると、子供達に大人気のステージの始まりです。確か「恐竜ジャー」だったか。たくさんの子供達か声援を送っていました。
地域の学校によるブラスバンド演奏 子供達が声援を送る恐竜ジャー
去年も恐竜ジャーと同じようなステージがありました。最初、声のお姉さんが子供達を元気づけていました。そして、いよいよ悪役と恐竜ジャーの戦いです。たくさんの小さな子供達が、恐竜ジャーに声援を送っていました。
恐竜ジャーを大声で応援するたくさんの子供達
去年は河川敷にたくさんの団体がお店などを広げていました。しかし、悪天候のため今年は、河川敷はがら空きです。また、田布施川は濁っていて波が荒いためかカヌーの体験は中止となりました。このため、河川敷を中心とする田布施川はほとんど人がいませんでした。今年は静かな田布施川でした。
荒れた田布施川のため、誰もいない静かな河川敷
野外ステージを後にすると、車のコーナーに行ってみました。去年と同様に白バイや消防車のコーナーがありました。今年はパトロールカーと自衛隊車両のコーナーが人気のようです。子供たちが、制服を着せてもらって車両の前で写真を撮影してもらっていました。自衛隊の装甲車両は大人にも人気でした。
警察の服を着て撮影 装甲車両の前で撮影
午後初めは、時々雨が降ったり晴れたりの天気雨でした。しかし、午後2時頃を過ぎると寒い風は相変わらずでしたが、だいぶ天候が安定してきました。たくさんの家族が芝生の上や桜の下でくつろいでいました。
芝生の上でくつろぐたくさんの家族
次に動物コーナーに行きました。あるコーナーではカブトムシを売っていました。私が子供の頃、カブトムシは採取するもので買うものではありませんでした。そもそも採取する場所が無くなったのか、採種する時間が無いのでしょうか。犬のコーナーではたくさんの可愛い犬が抱っこされていました。ドッグレースもあったようですが、見ることができませんでした。
ところで、ボーイスカウトコーナーに行くと、中高時代の同級生達がいました。私もかつてボーイスカウトで指導者をしていたので懐かしくなりました。
かわいい犬を抱っこしている子供達 カブトムシに見入っている男の子二人
河川敷で隊列を組むボーイとガール 田布施農工生徒によるロボット競技
午後遅くに天候は回復したのですが、風だけは強いままでした。このため、露店の商品が飛ばされたり、テントが浮き上がったりしていました。特に、風船類は風に吹き飛ばされそうでした。ゴム風船の一部は割れていました。
風で飛ばされそうなお店の風船の数々、一部は割れる
午後3時頃になると体が冷えてきました。そこで最後、野外ステージに行ってビッグバンドジャズオーケストラの演奏を聴きました。平生町が活動母体であるスイングスターが演奏をしていました。去年の秋に、麻郷の高松八幡宮の10年に一度の大祭の夜の部で演奏していたグループです。半年ぶりに演奏を聴きました。私も若いころジャズを演奏(トロンボーン)していたことがあります。最初の曲「インザ・ムード」、私もよく演奏したとても懐かしい曲です。しばらく立ったまま聞きました。
演奏を聴き終ると、夕飯のお土産に肉おにぎりと焼きうどんを私と母親の2人分買いました。そして近くに止めていたバイクに乗って我家に帰りました。今年も何人かの同級生に逢って楽しいさくら祭りでした。
ジャズオーケストラの演奏 肉おにぎりと焼きうどんを購入
昨日は良い天気で満開の桜を楽しむことができました。しかし、一転して今日は雨です。せっかく咲いた桜がほとんど散ってしまいました。明日7日の「田布施町さくら祭り」が心配です。雨中で準備している方々、ご苦労様です。
さて、夕方になって雨がやみました。昨日到着したセコイア(センペルセコイア)の苗木を裏山に移植することにしました。2月に落葉性のメタセコイアを移植しましたが、今回は常緑樹のセコイアです。
段ボール箱で届いたセコイアの苗木 根巻きの麻布と縄をほどく
セコイアは、幹や背がとても大きくなる樹木のようです。アメリカには巨大なセコイアの森があるそうで、高さも80m位のセコイアもあるそうです。我家のセコイアはそこまでは育たなくてもよいので、遠くから分かる程度には育って欲しいと思います。そのためにも、幼木の間は虫が付かないように世話をしようと思います。
葉を締めている縄をほどく 幹の直径、指で摘まめる1cm位
セコイアの苗木を植えた裏山は、笹などの下草がたくさん生えていました。しかしまだ、笹などの根は残っています。スコップで笹の根を綺麗に取り除き、深さ30cm程度の植穴を掘りました。その植穴に苗木を植えました。そして、その植穴の周りに土を埋めて固く踏みつけました。
今は小さなセコイアの苗、根付いてくれるでしょうか
セコイアの苗を植えた裏山、去年の4月に帰った時は笹などの下草がびっとりと生えていました。春から少しずつ下草刈りを続けてきました。このため、一部の山はようやく歩ける程度には下草がなくなりました。しかし、笹などの芽が再び生えてきます。また、クズ,藤,アケビなどのつる植物も生えてきます。それらも、しばらくは排除しなければなりません。
笹などを下刈りした空間に、ポツンと立つセコイアの幼苗
セコイアの苗木を植えた後、メタセコイアと赤松の根付き具合を確かめました。まず、赤松は10本共に根付いたようです。根本近くの葉色は薄いのですが、頭頂部は濃い緑色をしています。新芽も少し伸びているようです。メタセコイアは落葉樹ですので、冬の間は葉がありません。根付いたのか、3月中旬以降新しい葉が次々に出ています。
根付いた松、新芽が伸びる メタセコイアの芽吹いた新葉
メタセコイアはまだ葉が出そろっていないため、樹木全体がまださびしい感じです。とにかく、今年は根付いてくれれば良いと思っていたため新しい葉が出ただけでもうれしいです。2,3年経てばメタセコイアらしい樹形になると思います。それまでは、周りの木を刈り取ったり、つる性植物が巻きつかないようにしたり、世話をしようと思います。
今年植えたメタセコイアとセコイア、両方ともに200年位は生きるそうです。200年後の世界、私にはとても想像もできません。私がいないその未来を、この樹木には見て欲しいと思っています。
葉が出そろっておらず、樹木全体がまださびしいメタセコイア
4月上旬になり、我家の庭や山ではいろいろな花が咲き乱れています。特に桜(染井吉野)は、我家を包むように満開です。父親が元気だった頃、桜が満開になると近所の人達が来て我家の庭にゴザを広げて花見をしたそうです。去年父親は亡くなったため、今年からはそのような花見はできません。
我家を包むように植えられた桜が満開
今満開の桜は、我家を囲む裏山に沿って苗木を植えたものです。一度だけ台風で何本か倒れましたが、残りの桜が倒れた桜を補うように大きくなりました。
ところで、30年前に私が結婚した時に父親が植えた桜、今年も元気に咲いています。家内といつまでも仲良く暮らすようにと、二本の桜を20cm位離して植えたそうです。その二本の桜、今では一つに融合して大木になっています。
二本の桜が根本で融合 尾根に沿って植えられた桜
桜以外の花も満開です。桜は植えたものですが、山ツツジは自然に生えたものです。私が子供の頃も、山にたくさんのツツジが咲いていました。この地域では、桜をめでるよりも、山ツツジをめでていたそうです。桜は、町中にたくさん植えられていましたが山里にはそれほど植えられていませんでした。戦後、桜があらゆる場所に植えられるようになったため、この地域でも桜が春の代名詞になったようです。そう言えば、私が子供の頃は山ツツジが多く、桜は神社などに行かないと見ることができませんでした。
満開の山ツツジ、ツツジの花粉は桜のように飛ばないでくっつく
スモモの花は小さく白いのでやや派手さが足りません。でも、木全体に白い花が咲くのはなかなか見事です。このスモモ、夏には赤く美味しい果実を収穫して食べることができます。
桜以上に色が濃いのは、ハナズオウです。この植物はマメ科ですので、花の形がマメ科固有の形をしています。色がとても濃いので遠くからでも分かります。鞘はネムノキにとてもよく似ています。
小さく白いスモモの花 色が濃いハナズオウの花
大きな花びらが特長の桃も、桜に負けじと満開です。桜よりやや濃いいピンク色です。桃は、花が散ると実がだんだん大きくなります。そして、夏には甘くておいしい桃を収穫できます。美しい花を楽しむことができて、かつ美味しい実を収穫できるのは、桃だけではないかと思います。花が散った後、小さな実を摘果して虫が入らないように袋がけする作業がこれから始まります。今年は、何個の桃を収穫することができるでしょうか。とても楽しみです。
ピンク色で大きな花びらが特長の桃、今年は何個の桃を収穫できるでしょうか
庭に植えてあるハナカイドウも、これまたたくさんの花が満開です。枝すべてに花が咲いているので、木全体が花で覆われているように見えます。桜は枝に花が付いていますが、ハナカイドウは枝からぶら下がるように花が咲いているのが特長です。葉や枝はそれほど特徴がないのですが、今の時期だけは目いっぱい目立つ花を咲かせています。
枝からぶら下がるようにして、ハナカイドウのたくさんの花が満開
先日、ハンマーナイフモアを使って枯草を刈り取ったり、埋まった黒いビニールを片づけたりした空き地をトラクターで耕耘することにしました。最初、何故だか窪んでいる穴に周りの土を集めて埋め戻しました。この穴は、枯草などを焼くための穴ではないかと思われます。しかし、これまでこの空き地を管理していた父親が亡くなった今、確かめるすべはありません。
畑の窪んだ穴、集めた土を入れて埋める
続いてトラクタで耕耘を始めました。耕耘を始めて驚いたのは、トラクタ後部のロータリーが大きな音を上げて跳ねることでした。つまり、土中に大小の石がたくさんあり、その石をロータリー刃がはじくためでした。どうもこの空き地にはたくさんの石が埋まっているようです。その石の数は半端な数ではなさそうです。
まっすぐ正面を見ながら耕耘 表面の草を削るように耕耘
あまり石が多いとロータリーに負荷がかかり過ぎて、ロータリー軸が折れたりする破損がおきます。そこで、ロータリーの跳ねる度合いに応じて、こまめにロータリーを上げ下げしました。つまり、石が多い場所は草を削る程度に浅く耕し、石が少ない場所は深めに耕耘しました。
この空き地は全体的に大小の石ころが多いので、普通の野菜を栽培する畑にするには不適と思われます。1~2年程度かけて石を拾い集めなければ、普通の畑として使えそうもありません。クリ,果樹,胡桃,またはオリーブを植えるような、果樹園にした方が良いかも知れません。
一通り畑の表面を浅く耕した空き地、栗やオリーブを植えるのがよさそう
先日より、伐採した樹木を切断して整理する作業を少しずつ続けています。今回は、切断した木のうち比較的大きな幹や枝を積み重ねる作業をしました。そろそろ春の野菜の種まきをしたり植え付ける作業が始まります。そのためにも、伐採した木を片づけなければなりません。最後の追い込みです。
切断した太い幹を集め、井型に組んで積み重ねる
最初、太い幹を集めて井型に組んで積み重ねました。まだ完全には乾燥していないうえ、昨日の雨で濡れて重くなっています。その重い幹を集めて積み重ねしました。長めの幹はチェーンソーで二つに分割しました。太い幹を積み重ね終わると、その上に太い枝を同じように井型に積み重ねました。
太い幹や枝はチェーンソーで切断 太い幹を下にして枝を積み重ね
2時間ほどで、ある程度の幹や枝を積み重ねましたが腕や手が疲れました。残りの枝はこの次に積み重ねようと思います。4月中にすべて整理し終わって、我家の作業小屋にすべて運ぼうと思います。運び終わると、この畑を耕運機で耕耘してサツマイモか何かを植えようと思っています。
ところで、伐採した場所の隣りは秋に種まきをした麦が青々と茂っています。この青々とした麦を見ていると、少し疲れが取れるような気がします。
積み重ねた幹や枝の隣りの、青々と茂った麦畑
このSONY製トランジスタラジオ TR-610の修理履歴です。それぞれをクリックしてください。
修理(1/6) 修理(2/6) 修理(3/6) 修理(4/6)
修理(5/6) 修理(6/6)
今日は朝から雨です。畑仕事ができないため、引き続きSONY製トランジスタラジオ TR-610の修理をしました。前回は、内部に使われているトランジスタをはじめとする素子を調査しましたが、今回はラジオ本体に付けられた手提げを直すことにしました。この手下げを使うと、ラジオを手下げにして持ち歩くことができますし、ラジオを倒立させる置く支えにもなります。
動きが甘くなった手下げの支え部 手下げの根元、なんと針金で固定
手下げとして使うには問題ないのですが、この手下げの根本部分が緩んでいるために、ラジオをテーブルなどの平らな場所に倒立させることができません。すぐにペタンと倒れてしまいます。コ型の手下げをいったん外すことにしました。外すためには、手提の基部を取り外す必要があります。その根本、ワッシャのような金具が使われているのかと思っていたら、細い針金が巻かれていました。修理時にワッシャを無くして、やむなく針金で巻いたのでしょうか?
手下げの基部にまかれていた細い針金を解く
手下げの根本にまかれていた細い針金、製造時に手下げの基部穴に細い針金を通して巻いていたのでしょう。細かい手作業だったに違いありません。このような、針金を使った固定方法は他のラジオで見たことがありません。当時の製造方法の苦労を見る思いです。ある意味、手作り感があるラジオと言えるでしょう。
細い針金を解いて取り外した、コ型の手下げ
手下げを使ってラジオを倒立できなくなった理由は二つあります。一つは、手下げ自身が長い年月の間に緩んでしまったことです。そして二つ目は、ラジオ本体部分のプラスチック部分が摩耗したために手下げを支えきれなくなったことです。ラジオ本体の支え部を直すことは不可能ですので、今回は手下げの緩みを直すことだけにとどめました。
緩まなくなった手下げ 手下げの基部を再び細線で巻く
手下げの緩みを直して、再び元のようにラジオ本体に取り付けました。以前は倒立することができず、ペタンと仰向けに倒れていました。しかし、手下げの緩みを直したことによってラジオがちゃんと倒立するようになりました。しかしながら手で強く押すと、簡単に倒れてしまいましす。平でない石の上,風が吹く野外,グラグラするテーブルなど、不安定な場所で倒立させて使うのは避けた方がよさそうです。
手さげの緩みを直した結果、倒立できるようになったラジオ
4月1日、田布施町麻郷にある麻郷護国神社(惣田山招魂社)の慰霊祭へ約50年ぶりに行きました。この近隣では通称「招魂場」と言っています。私が小学生の頃、通学路の途中にこの麻郷護国神社がありました。このため、道草ついでによく寄っては遊びました。
慰霊祭に集まった方々 神主さんの挨拶で慰霊祭開始
私が小学生の頃の慰霊祭は、遺族の方々が今回よりたくさん来ていました。そして、境内の広場に並んでゴザを敷いて、炊き出しがあったのでしょうか、みんなで食事をとっていたように記憶しています。今回、さらに昔の慰霊祭の様子を聞きました。戦前にも慰霊祭があり、戊辰戦争や日清日露戦争で亡くなった方々を慰霊していたそうです。当時は、小学生達がこの広場に並んで慰霊していたこともあったそうです。
戦没した方々の慰霊をしておられる神主さん
この麻郷護国神社は、江戸時代に麻郷の米出にあった上関宰判勘場(11月のウォーキングで碑を見学)の管轄だった第二奇兵隊の殉難志士の神霊を慰めるたに祀られたのが起源です。慶応2年(1866)のことだそうです。当初は、戊辰戦争時に京都や東北を転戦している時に亡くなった第二奇兵隊の方々を慰霊した場所です。会津討伐のきっかけの一つになった奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵(第二奇兵隊軍監)もここで静かに祀られています。時代は流れ、現代はもっぱら太平洋戦争で亡くなった方々を慰霊する場所となっています。
小さな巫女さん達が舞う中で慰霊
慰霊祭をとりおこなっておられたのは高松八幡宮の神主さんです。小さな巫女さん達の舞は、去年の9月に行われた10年に1度の大祭で見て以来です。約50年ぶりに訪れた慰霊祭でしたので、ほとんどの方は知らない方ばかりでした。それでも、数名の方は知っている方でした。昔の慰霊祭の様子や麻郷の変わりぶりなどを聞かせていただきました。この神社、鳥越地区と旭地区の方々が掃除して、慰霊祭は高松八幡宮の神主さんがとりおこなっておられるそうです。
郷中会など代表の方々の玉串奉奠 立ったまま慰霊する方々
昔の慰霊祭は、露店が出たり,青年の踊りがあったり,ごちそうが出たりと、たいそう賑やかだったそうです。ある方が「だんだん年寄りばかりになってさびしいものだ。」とおっしゃっておられました。慰霊祭に来ている方を見渡してみると、確かにお年寄りばかりで子供はほんの数人でした。青年にいたっては一人もいませんでした。
慰霊祭が終わって、記念品でしょうか、いただく方々
私の亡き父親は当時の満州で、重機関銃を担ぎながら移動し、死ぬような悲惨な体験をいくつもしました。ソ連と中国の国境から逃げている開拓団の悲劇などをいくつも見たそうです。銃で撃たれたこともあったそうです(運が良く、当たらなかった)。何人もの仲間を失った上、終戦後数年間中国に潜伏してようやく帰国することができました。日本に帰る船中でも、祖国を見ることなく亡くなった方が少なからずいたそうです。今この世に生きている人達は皆、これら先人の苦難の上に立っていることを知っておく必要があると思いました。
なお、光市室積の峨眉山のふもとにも光峨眉山護国神社と呼ばれる護国神社があります。ここには、もっとたくさん方々が祀られています。
境内広場の満開の桜 神社入口で、大勢の帰る方々
長ネギの草取りやネギ坊主切除などの作業をしました。冬の間にネギの根元にはハコベなどの雑草が地面が見えないほどに、また長ネギが埋没するほど生えてきました。最初、そのハコベなどの雑草を取り除きました。
長ネギが埋没するほどの雑草 長ネギの片側を除草
大まかに除草すると、平クワで畝の周りを削りました。そして、長ネギの根元に生える雑草を綺麗に取り除きました。肥料分を雑草に取られたのか、ネギの葉は緑が薄くなっていました。いくつかの長ネギは根が2,3個に分げつしていました。冬の間に収穫した場所は空いています。その空いた場所に、根を分けた長ネギを新たに移植しました。
畝の周辺を削るなど、雑草がほぼ無くなった長ネギ
除草を終えると、長ネギの蕾であるネギ坊主を切除しました。ネギ坊主を切除しないでおくと、そのうち花が咲いて種ができます。こうなると、長ネギはすじっぽくなり硬くて食べることができなくなります。花や種に栄養を取られないように、今後次々に出てくるネギ坊主を切除します。今出ているネギ坊主をすべて切除し終わると、ネギの株元に肥料をまいておきました。この肥料で、緑が少しは濃くなると思います。
ネギ坊主をハサミで切除 除草、施肥などが終わった長ネギ畑