石原璋(たまき)の顕彰碑を見終わると、次に石走山古墳に行くことにしました。途中田布施の名木の一つを見上げました。その樹木の種類は忘れてしまいました。バイクを駐車するため石走山下の駐車場に行きました。この駐車場はどこのだれが管理しているのかよく分かりませんが駐車させていただきました。なお、その駐車場の向かい側は川に面しているのですが、侵入禁止になっています。ここはバスを止めることができるほどの広い空地です。駐車場として管理できれば便利ではないかと思います。
田布施の名木の一つ 駐車場前の道路標示 左が空地、右は駐車場
石走山古墳へは、北側から登るコースを取りました。舗装され手すりがついた坂道です。緩くて登りやすい坂道なのですが、ここ最近草刈りできなかったのか灌木が生えています。登りきると墓所があります。その少し横に祠があります。さらにその小道を進むと、石走山古墳の案内板が建っていました。錆びて茶色に変色した案内板です。
手すりがついた登り坂 墓所横の祠 錆びた案内板
錆びた案内板から数十m進むと、石走山古墳です。古墳周辺が少し草刈りしてありました。数年前は灌木だらけで歩けないほどでしたが、少し訪れやすくなっていました。古墳の南側に石室の入口が開いています。中に入ってみました。入口は狭いものの、中は立つことができます。古代において、どんな人が葬られたのでしようか。
石室に入ることができる石走山古墳
石走山古墳の周りを一回りして、西側に通じる道を通ってみました。灌木が生えているため道がよく分かりません。それでも突き進むと山道に着きました。ところが、その場所の地面に案内板が落ちていました。元々は立ててあったのが落下したのでしょうか。石走山古墳へのルートは三つあります。そのうちの民家を脇を通るルートは、とても分かりにくく初めての方は道に迷ってしまうか不安に思うのではないかと思います。生活道路と畑との境が少し分かりにくいルートです。
山道に落ちていた案内板 お地蔵様 石走山古墳の案内板
登ったのとは反対側の下山ルートで降りました。真下に舗装道路が見える場所に立派なお地蔵様の立像があります。お地蔵様の横を下ると、ルート7,8の石走山古墳案内板が建っています。全体的に見て、石走山古墳は石室内に入れる貴重な古墳だと思いますが、周りは灌木だらけで道の整備が遅れているように思えます。もう少し道を歩きやすくしたり案内板を整備すれは魅力的になると思われます。
国森古墳と石走山古墳の周辺ルート
夕方T邸に数人が集まって健康ウォーキングクラブ2017年総会に向けたミニ総会をしました。今年度のウォーキング予定、去年のウォーキング実績、現在の会員状況、そして会計報告資料の確認をしました。会計については21日の総会にTさんが用事のために出席できないとのことで、私が説明することになりました。通帳など回覧して問題がないことを確認しました。Tさん会計ご苦労様です。なお、健康ウォーキングクラブは、おかげでクラブ結成6年目に入ります。今後ともよろしくお願いいたします。
健康ウォーキングクラブの2017年総会に向けたミニ総会
先日、納蔵原古墳周辺を調査しました。今度は国森古墳と石走山古墳周辺を調査してみることにしました。この付近は古墳がたくさんある地域です。近くに比較的大きな円墳である木ノ井山古墳もあります。その他小さな古墳が散在しています。古代において墳丘地帯だったのではないでしょうか。
国森古墳の案内板 案内板とお地蔵様 急斜面のルート
まず、観音橋を渡って200m位進むと、国森古墳を指し示す青色の案内板があります。ライオンズクラブがルート7.8として建てた案内板です。その案内板の示すとおりに進むと、今度は国森古墳の入口を示す低い案内板があります。その隣にお地蔵様があります。ここでバイクを降りました。ここからは歩いて山道を進まなければなりません。
この角をターン 地元の稲荷社 納所のお地蔵様
少し歩くと、国森古墳に最も早く行ける急斜面のルートがあります。その前に案内板が建っています。急斜面はローブを掴まないと登ることができません。今回は、急斜面のルートを登りませんでした。道なりに進むと、ここを曲がると国森古墳へ行く案内板が建っています。
国森古墳の説明版と山口県指定史跡国森古墳柱
しかし、すぐには国森古墳に行かないで周辺の山道を探索しました。北への小道を進むと、地元の稲荷社がありました。明治35年に奉納された短歌集板が掲げられていました。さらに進むと眼下に石原璋(たまき)の石碑が見えてきました。ここで道を戻って西側の道を進みました。すると、納所の舗装道路に出ました。道の反対側に、道を見守るようにお地蔵様が安置されていました。
国森古墳の祠 国森古墳の葺石? ロープを掴んで降りる
道を戻って国森古墳に行きました。そして方墳と言われる頂上に行きました。整備したのでしょうか。ここに倒れていた山口県指定史跡国森古墳柱が説明板の横に建てられていました。ところで、説明板の近くに古墳の葺石と思われる丸い石がごろごろしています。葺石を少し手直して並べれば、観光の目玉になるのかなと思います。国森古墳からの帰路は急斜面を降りました。ロープを掴んで降りたのですが、やや危険に思いました。
山すそにひっそりと建つ石原璋の石碑
続いて、古墳とは関係ないのですが石原璋の石碑を訪れました。明治時代、富永有隣に学んだ学者です。とても立派な石碑です。彼の弟子がこの石碑を建立したとのこと。この石碑がある場所に御屋敷があったようですが、今は何もありません。往時を思わせる立派な石垣だけが残っています。なお、この石碑の奥にさきほど行った稲荷社がありますが、神主の名前が石原となっていました。石原家はこの稲荷社の神主をしていたようです。
国森古墳と石走山古墳の周辺ルート
この春から、羊の原毛や綿などの繊維を使い、紡いで、染色して、編むか織りをしようかと考えています。郷土館の機織り機修理のめどが立ったためです。綿の種まきから織りまで一貫してできそうです。つまり、江戸時代から明治にかけて田布施の重要な産業の一つであった織物を一貫して体験できるのです。とは言っても、郷土館にあるのは江戸から明治にかけて使われていた古い道具が中心です。工具も直しながらの織りになりそうです。
素敵なテーブルで談笑 機織りをするOさん 機織り体験するTさん
私は羊毛の紡ぎや織りは知っていますが、綿は全くの素人です。そのため、綿の種まきから機織りまでを自宅でしている大波野のOさんの元を訪ねました。そして、綿の紡ぎや織りなどを見せていただきました。そして、訪れた3人全員が織りを体験しました。私は柳井市で柳井縞を体験したことはちょっとだけありますが、今回のような広い幅の反物を織るのは初めてです。縦糸が600本だとのこと。この縦糸を張るだけでも大仕事のように思えます。
Oさんに機織りを教えてもらい体験しているTさん
織りが初体験の3人、おっかなびっくり体験しました。体験後、織った生地を見ました。すると、Oさんが織った生地とあきらかに違うのです。特に横糸の詰まり具合です。3人が織った横糸は詰まりすぎてぎゅうぎゅうなのです。Oさんが織った横糸はすっきりしているのです。横糸を均等に詰めるにはやはり年季がいるのでしょう。良い体験になりました。郷土館の機織り機の修理が終われば、縦糸が200本程度の体験専用の機織り機にしようかと考えています。
Oさんの織った横糸と3人が織った横糸には明らかな差
織物に関して4月は忙しい月になりそうです。古代田布施で使われていたスピンドル(コマの部分を焼いて)を再現すること。田布施農業工業高校で羊の原毛刈りを見学させていただき、原毛をいただくこと。いただいた原毛を脱脂すること。そして、綿の種まきや染色に使う藍や紅花の種まきをすることなどです。原毛は、脱脂すればすぐに紡ぎに入れます。綿は収穫が秋になりそうなので、紡ぎは秋になってからになりそうです。染色は夏から秋にかけてです。
紡ぎと織りの見学と体験が終わると、Oさんと3人で天王原古墳と納蔵原古墳を訪れました。途中、犬を連れて散歩中の同級生に偶然会いました。
訪れた納蔵原古墳 右からOさん,私,K君.Tさん 撮影はEさん
町の園芸店を覘いてみると、ジャガイモの種芋を売っていました。春はまだまだ先の事だと思っていましたが、こうして種芋を見ると春の準備をしなければと気がせきます。私が好きなジャガイモはシンシアです。メークインに近い丸い形をしており、芽が浅い品種です。この近くでこの品種を売っているのは一軒のお店だけなのが難点です。
畑の耕耘を開始 畑の角もしっかり耕耘 隙間なく耕耘
今回耕耘したのは去年トウモロコシを植えていた畑です。硬い根っこが残っていましたが、トラクターを使うほどではありません。大型耕耘機を使って耕しました。ジャガイモを植えようか、綿の種を蒔こうか、陸稲の種を蒔こうか考えています。まだまだ耕耘しなければならない畑がほかにあります。山の笹刈りを続行しながら、その合間に畑を耕耘しようと思います。
耕耘が終わった、元トウモロコシ畑
上関半島の平生町,上関町,そして柳井市の神社を初詣したのですが、上関町長島の神社まではとても回れそうもありませんでした。そのため、実は正月前にお詣りを済ませておきました。回ったのは蒲井,四代,白井田,そして戸津の神社です。
蒲井八幡宮の鳥居 蒲井八幡宮の本殿 本殿近くの祠
最初に行ったのは蒲井です。長島のほぼ中央の南側にある街です。室津から祝島への連絡船が立ち寄る港があります。20年位前、照光寺前には田んぼが広がっていました。しかし今、田んぼで稲を作る人がいなくなったようです。埋め立てしたのか、田んぼ跡に宿舎のような建物があります。さて、蒲井八幡宮に行きました。この神社はこんもりとした林に囲まれていました。ご神体と思われる大木があります。
お正月の飾りつけがされた、ご神体と思われる大木
続いて長島西端にある四代に行きました。江戸時代初めここに上関勘場がありました。勘場はその後上関に移り、幕末までに田布施町麻郷の米出に移りました。四代八幡宮に行くと、お正月の飾りつけが終わっていました。蒲井もそうですが、四代はいつ行っても静かです。しかし、帰省している方々がいるようでいつもより賑やかでした。
四代八幡宮の鳥居 四代八幡宮の本殿 湯銭の儀のよう?
続いて、蒲井の反対側にある白井田に行きました。そして、白井田八幡宮に行きました。ちょうどお正月の飾りつけの最中でした。大鳥居の注連縄を張ったり、各祠に注連縄を張っておられました。境内にシートを広げて座り、手で縄を編んでいる方もいました。その方といろいろとお話をしました。その昔はどんでん祭をするなど、八幡宮はとても賑やかだったそうです。田布施町ではどんでん祭の話を聞きませんが、佐賀の白鳥神社では今でもお祭りするようです。
白井田八幡宮の鳥居 みごとな石階段 白井田八幡宮の本殿
白井田八幡宮を見学していると、田布施麻郷の高松八幡宮との関わりを示す昭和四年の書状がありました。白井田八幡宮と高松八幡宮の関わりを初めて知りました。今でも高松八幡宮の宮司さんが講話に来られるそうです。なお、お正月は沼八幡宮の宮司さんが来られるとのこと。元々は白井田にも宮司さんがおられたそうですが、造船の仕事が忙しく辞められたそうです。
特別に見せていただいた白井田八幡宮の奥殿の飾りつけ
白井田八幡宮でお正月の準備をしてる方々とお話をしたため、すっかり時間が過ぎてしまいました。急いで戸津(へつ)に行きました。戸津に着くと、戸津八幡宮をお詣りしました。すでにお正月の飾りつけが終わり、鳥居には注連縄が張ってありました。また本殿も飾りつけが終わっていました。手水石の建物そばに立って休憩しました。
戸津八幡宮の鳥居 戸津八幡宮の本殿 手水石の建物
続いて竈八幡宮に行く予定でした。しかし、戸津八幡宮までにだいぶ時間が過ぎていました。竈八幡宮はお詣りしたことがあるため、今回は諦めました。その他、竜宮社,菅原神社,住吉神社も行くことができませんでした。
お詣りのために通った上関町長島のコース
超長い石階段をハーハー言いながら小島神社に着きました。この神社には、近くにある厳島神社と同じように境内に巨石があります。田布施町麻郷竹重にある大岩と同じ位の巨石が、本殿の隣にあるのです。
山麓にある小島神社 小島神社横の巨石 白井小介の名前が
この周辺は、古代において巨石をあがめる文化があったのではないかと思います。土穂石川にある巨石と関わりがある土穂石八幡宮、田布施町にある石ノ口八幡宮や八尋石八幡宮も巨石に関係しています。弥生時代以前に住んでいた人の自然崇拝が今に残ったものではないでしょうか。
古開作の大師堂 土穂石八幡宮の鳥居 交通安全祈願
その小島神社境内の巨石を眺めた後、境内に面白い石碑を見つけました。伊保庄に関わる漢詩が刻まれていました。その作者も刻まれていました。白井素行と刻まれていました。つまり、戊辰戦争で活躍した白井小介です。阿月で生まれた白井小介は、明治以降山形有朋のように中央政界に出ず宇佐木で飯山塾を開いていました。そんな時に、石碑に刻むためこの漢詩を作ったのでしょう。
久しぶりに来た土穂石八幡宮
小島神社のとても長い石階段をまた降りました。11月の東京の大雪で痛めた右ひざにはきつい下り坂でした。続いて、古開作の大師堂に行きました。柳井へ行く県道脇にある古びた大師堂です。防陽八十八霊場の第四番札所です。県道に一軒だけ孤立して建っているためか、今は訪れる人はわずかのようです。続いて土穂石八幡宮に久しぶりに訪れました。ここで、車用の交通安全祈願の御札を購入しました。ちなみに大野八幡宮で購入したのはバイク用です。
鳥居が壊れた大祖荒神社 熊毛南高校隣の荒木神社
土穂石八幡宮を過ぎると、大祖地区の荒神社に行きました。かつては鳥居が建っていたのでしょうが、その破片の一部が傍に横たわっています。いつか再建されるのではないでしょうか。そして、最後に熊毛南高校の隣にある荒木神社に行きました。この神社をお参りしたのは、今後も同級生に会えるよう祈願するためです。これで、お正月の初詣は終わりです。少々疲れた初詣でした。
初詣のために通った、麻郷,平生町,上関町,柳井市のコース
黒島を一回りして黒島神社に行きました。周りの木々で日陰になった静かな神社です。本殿と氏子会館が一つになっている、普通の民家のような建物です。黒島は古代において島だったのではないかと思います。今の烏島(からすじま)のように海に浮かんだ島だったと思います。また、この近くで遺跡が見つかっています。古代から人が住んでいたのでしょう。
黒島の西側山麓に鎮座する黒島神社
続いて、厳島神社に行きました。この神社は海を見下ろす小山の頂上にあります。この神社は巨石がご神体ではないかと思われます。海に向かう石鳥居の入口付近に巨石がゴロゴロしているのです。そして、その巨石の一つに灯篭が建てられています。目の前に火力発電所がありますが、私が子供の頃、発電所はなく反対側の柳井港まで延々と海が広がっていました。大昔、山から転げ落ちた巨石なのでしょうか。
厳島神社の本殿 鳥居近くの巨石の一つ 人麻呂神社
続いて山に入りました。そのまま道を登りつめると、平生町の般若寺に着く道です。その道の途中にある人麻呂神社に行きました。注意しながら通らないと、この神社に気が付きません。万葉集の歌人である柿本人麻呂を祀った神社と言われています。人丸神社とも言いいます。田布施町麻郷鳥越には柿本大明神と刻まれた祠があります。鳥越の方はこれを人丸様と呼んでいます。
谷筋にある常楽寺 火力発電所がよく見下ろせる専称寺
人麻呂神社を過ぎて、どんどん坂道を登りました。そのまま上り詰めれば安城寺(あじょうじ)地区又は般若寺に着くのですが、今回は常楽寺でおしまいにしました。常楽寺は谷筋に建てられています。谷筋沿いにたくさんのお地蔵様が並ぶように安置されています。常楽寺で道を引き返しました。そして、途中にある専称寺を訪れました。お社のようにも見える本堂がありました。庭には白砂が撒かれていて綺麗に掃かれていました。
小烏神社、石段の中間付近から下 小烏神社本殿から下を見て
坂を降りると次に小烏神社に行きました。名前からすると優しい神社のようですが、とんでもありません。急斜面に延々と石階段が続くのです。もうそろそろかと思うと、中ほどなのです。この周辺では一番長い石階段だと思います。また、一つ一つの階段の段差もあるため高齢者はとても無理です。ちなみに段数を数えてみました。334段ありました。石階段の登り口近くは、海に面して鳥居がありました。元々は海から石階段が続いていたのでしょう。足ががくがくです。何度も休みながら石階段を登りました。
初詣のために通った、麻郷,平生町,上関町,柳井市のコース
上関半島を一日で回れなかったため、再度尾国を回って阿月に行きました。最初、去年の6月にウォーキングした赤崎神社に行きました。下見などで4度も行った神社でした。続いて西神明社、東神明社に行きました。誰もおらず静かな神社でした。
阿月赤崎神社 阿月西神明社 阿月東神明社
阿月を出ると伊保庄に入りました。そして、この周辺では一番大きいと言われる加茂神社に行きました。元々は二家族の宮司さんがいたそうです。その昔、阿月の神明祭時にこの二人の宮司さんが東と西の神明社にそれぞれ就いていたそうです。しかし、今は一家族だけが宮司さんをしているとのこと。
この周辺地域で一番立派な加茂神社本殿
明治時代初め、廃仏毀釈により廃寺になるお寺が少なくなかった一方で、神社は威勢が良かったそうです。伊保庄生まれの母親の話では、明治の初めにお寺の檀家をやめて加茂神社の氏子だけになった家が少なくなかったそうです。つまり、結婚式やお葬式などすべて神社で行うようになったそうです。それだけ、この加茂神社は威勢が良かったようです。そのため、戦前は地域の方々が半ば義務的に掃除などを担当していました。ところが戦後、たまたま私の祖母が婦人会の会長をした時に、婦人会として掃除を止めたとか。すると、そのことを宮司さんにとがめられて祖母が泣いていたのを、私の母親が見たそうです。氏子さんが掃除するのは普通としても、戦前は婦人会も掃除に参加していたのですね。
伊保庄から見た柳井の三ヶ岳と琴石山
加茂神社を出ると黒島に行きました。私が平生保育園時代にバスで毎年遠足に来ていた場所です。今は開発されてサザンセト伊保庄マリンパーク(黒島海浜公園)になっています。私が記憶している黒島はもうありません。そのマリンバーク入口にひっそりとブロック作りのお堂があります。ここは南陽八十八ヵ所霊場の第九番札所浄念寺跡なのです。明治維新後取り壊され廃寺になりました。このお堂内に、とても長く大きな数珠が遺品として飾られていました。記録によると今から250年前の明和七年(1770年)に念仏講か作られたとあります。、全員が念仏を唱えながらでこの大数珠を回したのでしょう。
浄念寺跡のお堂 長く大きな数珠 黒島の平和記念塔
このお堂の横に山道があります。その道をどんどん登ると、山の頂上に平和記念塔が建っていました。建立が昭和20年代のため、忠魂碑が平和記念塔になったのではないかと思われますが詳細は分かりません。しかし、管理されていないようで記念塔前の広場は草木が生い茂っていました。続いて近くの黒島神社に行きました。
初詣のために通った、麻郷,平生町,上関町,柳井市のコース
上関町の大津を出ると、池ノ浦トンネルを抜けて柳井市に入りました。このトンネルは平成10年に完成しました。それまで、上関町大津と柳井市池ノ浦の間は不通でした。20年位前にこの周辺を調査した時、トンネルを工事中だった事を覚えています。今は便利になったものです。
池ノ浦神社 相ノ浦神社 相ノ浦からの柳井方面
20年位前でしょうか、池ノ浦トンネルが完成する前に池ノ浦に来たことがあります。ここに小さな池のようなものがあり、そこに平家が船を隠していたとか。その場所を源氏に見つかり戦闘があったそうです。平家は負けて一部が皇座山に向けて逃れたとの話を聞いたように思います。20年位前、その池ノ浦でハス芋をいただきました。そのハス芋、どこに植えたか忘れてしまいました。池ノ浦を出ると、相ノ浦神社に行きました。相ノ浦まで来ると、少し疲れたので海辺で休憩を取りました。
やっと見つけた平生町秋森の伝光庵
相ノ浦近くに来た頃、日が傾き始めていました。そのため、ここで神社のお参りを止めることにしました。そこで、柳井方面に行くのは止めて、尾国に戻りました。そして、どうしても見つからなかった伝光庵を再度探すことにしました。そして、小郡を探して見つからず、秋森の西側の道を駆け上がってみました。すると、丘の上にお地蔵様が見えてきました。その丘の上に続く階段を登ると、そこに伝光庵を見つけました。
伝光庵安置のお地蔵様1 同安置のお地蔵様2 庵から続くお地蔵様群
伝光庵は秋森集会所の隣にありました。他の庵や大師堂などでは、集会所内にお地蔵様や祠が安置されていますが、ここは集会所と庵が別部屋になっていました。伝光庵に隣接するように集会所が建てられたことが分かります。そして、伝光庵から裏山に向かってお地蔵様が並んでいました。田布施町川西大田の虚空堂や麻郷戎ヶ下大師堂なども同じようにお地蔵様が裏山に続いています。
伝光庵から裏山に続くお地蔵様群
田布施町や平生町のこうした庵,大師堂,薬師堂などを調査すると、これらの古い建物をどう残すかの苦労が分かります。多くの庵や大師堂は壊され、その跡に集会所が建て替えられています。そして、お地蔵様や祠が集会所に再度安置されているケースがとても多いのです。しかし、伝光庵は古い建物をなんとか残そうとしたようにみえます。例えば、田布施町犬田の場合は大師堂の隣に別棟として集会所が建てられています。
伝光庵を見つけた頃、日がだいぶ傾いていました。そのため、いったん我家に帰ることにしました。次日に残りの上関半島の神社をお参りすることにしました。
初詣のために通った、麻郷,平生町,上関町,柳井市のコース
尾国の加茂神社を過ぎると、上関町の志田に入りました。ここにも神社があるので立ち寄りました。他の神社のほとんどが丘の上にあるのに、この神社は平地にあります。ここに高校時代の同級生A君がいました。彼のお姉さんが、偶然にも私と同じ会社でした。入社時の新人担当をしていたように思います。とても明るく少しお茶目なお姉さんだったように覚えています。今はどこで暮らしているのでしょうか。会社があった横浜か、それとも山口県に戻っているのでしょうか。
志田の大歳神社 室津の稲荷神社 頂上にあるお社
続いて、室津に行きました。ここには、立派な石階段がある稲荷神社があります。そして、その神社の裏山にもお社があります。長い石階段を登ると、稲荷神社特有の赤い鳥居が並びます。その稲荷神社のさらに上に、忠魂碑と広場があります。ただし、誰も管理していないのか、広場は草が生え放題でした。
鳩子の湯入口の厳島神社 南陽霊場五十四番 霊場六十九番のお堂
加茂神社の石階段を降りると、鳩子の湯に行きました。ただし、今回は温泉が目的ではありません。その入口傍に鎮座する厳島神社を訪れるためです。いつもは通り過ぎてしまう石鳥居と祠です。続いて、上関半島を反対側へ回りました。神社ではないのですが、南陽八十八霊場第五十五番札所に行きました。毎年晩秋に般若寺のFさんが主導して南陽霊場周りをされている札所の一つではないかと思います。
千葉稲荷神社から大津や周防大島を見て
次に何の霊場か分からないお堂に寄りました。安置されているお地蔵様に第六十九番と刻んである不思議なお堂です。このお堂を過ぎて、海にせり出すようにそびえる山の頂にある千葉稲荷神社に行きました。その昔は城だったそうで、所々に石垣があります。言い伝えでは、源平合戦時にたくさんの人が亡くなったとか。千葉稲荷神社からは皇座山の白鳥稲荷神社が小さく見えました。時間が迫っていたため、今回は皇座山の白鳥稲荷神社には行けませんでした。そのため、千葉稲荷神社から皇座山の白鳥稲荷神社に向かってお祈りしました。
千葉稲神社のお社 皇座山の白鳥稲荷神社 大津の矢櫃神社
源平合戦で亡くなった方を弔ったのが、近くにある大津の平家塚です。八百年近く大津の方が守り続けてきたそうです。その昔、上関周辺では平氏と源氏が激しく戦ったようです。柳井や平生にも源平合戦に関わる史跡や言い伝えが残っています。次にトンネルを抜けて平家伝説の残る柳井市池の浦に入りました。
初詣のために通った、麻郷,平生町,上関町,柳井市のコース
新年の四日目、裏山に並べてあるしいたけのほだ木を見に行きました。まだ小さいのですが、しいたけを何個か収穫しました。帰り道の途中、道端に植えてあるザクロの木を見ました。すると、実が三つぶら下がっているではありませんか。木の裏側に実っていたため、葉が落ちるまで気が付かなかったのです。
葉が落ちたザクロ 実っていたザクロ 粒を取り出して味見
ザクロは種が大きいため桃やビワのようにかぶりついて食べることができません。どちらかと言うとアケビと同じような食べ方をします。種を含んだまま口に入れます。そして、実を潰すように汁を味わうのです。食べるのではなく、そのジューシーな汁を飲みます。やや甘酸っぱい味です。品種改良されて種が小さくなれば、とても美味しい果物になると思います。
赤い粒がぎっしり詰まったザクロの実
次々に神社を初詣しましたが、地域に根差した神社がこれほど多いとは思いませんでした。一つの地域に一つの神社があると思えば当然のことです。しかし近年、信仰する人が減るのか、少子高齢化の影響なのか、寂れている神社が少なくないのです。仕事柄各地の神社仏閣を訪れますが、仕方ないとは言え寂しいかぎりです。
田名の百済部神社 神花山麓の神花社 佐賀の八幡神社
田名の百済部神社の次に、神花山古墳で有名な神花山麓に鎮座する神花社を訪れました。お社の近くにある四つの祠に、それぞれ注連縄が張ってありました。続いて、佐賀に行きました。最初に八幡神社に行きました。小山の頂上にあるこ小ぶりな神社です。続いて、白鳥神社に行きました。巨大古墳の後円部に鎮座する神社です。
巨大古墳の後円部に鎮座する白鳥神社
続いて、はくとり稲荷大社に行きました。たくさんの人が詣でていました。この神社は、私の高校時代の同級生のお父さんが建立したとのこと。一代でこのような立派な神社を建立するには、それなりの霊力,努力,人脈などがあったはずです。どんな方だったのでしょうか。今思えば、高校時代に図々しい位にたくさんの友達を作っておけば良かったなあと思いました。そうすれば、卒業45年後の今、もっと交流できたのではないでしょうか。そして、子供の頃に体験したしきたりや風習の数々を聞くことができたのにと思いました。
はくとり稲荷大社 黒羽根の集会所 45年ぶりY君
たくさんの神社を初詣しましたが、今回は南陽霊場第十八番札所伝光庵を探すことも目的の一つでした。そのため、佐賀魚見を過ぎて最初の集落を調査しました。そして、集落の上の方に集会所を見つけました。広場にはお地蔵様を思わせるように石がいくつか置いてありました。その集会所を眺めていると、ある女性が山から降りてきました。その女性の話では、主人が詳しいのではないかとのこと。少しして、ご主人がやってきました。そして驚きました!
綺麗に飾られた、尾国の加茂神社
そのご主人と話をしていて、お互いに高校時代の同級生と分かりました。後で調べてみると、なんと三年生時代同じE組だったY君でした。さらに驚いたのは、奥さんです。その方も同級生(旧姓Aさん)だったのです。言われてみて、かすかにA組だったことを思い出しました。新年早々こんな事があるのですね。お互いに同級生だと分かり、びっくりしたと同時に、嬉しくなりました。
なお、集会所にはたくさんのお地蔵様が安置されていました。また祠も安置されていました。その昔、庵か大師堂などだったのではないかと推測されます。そして、御幣付きで亥の子が飾られていました。かつては子供達がこの亥の子を突いて回っていたのでしょう。こんなに大切に飾られている亥の子を初めてみました。
続いて、尾国の加茂神社を訪れました。その後、上関町に入りました。
初詣のために通った、麻郷,平生町,上関町,柳井市のコース
大野八幡宮に久しぶりに行きました。この神社は参道がとても長いため、ほとんどの車が参道を通り越して本殿近くの駐車場に向かいます。私はせっかくのお正月のため、バイクを参道の入口近くに停めました。そして、参道の入口から続く緩い上り坂を登って本殿まで行きました。たくさんの方々が初詣されていました。私はこの大野八幡宮で交通安全祈願のお守りを購入しました。
大野八満宮の参道入口 賑やかな大野八幡宮 交通安全祈願のお守り
続いて曽根八幡宮に行きました。先月ウォーキングの下見時に来ましたが、お正月のための再来です。ここも、大野八幡宮におとらず初詣客がたくさんいました。次に日向平の神社に行くことにしましたが、ここでコースの選定に間違えたことに気が付きました。大野八幡宮の次に日向平の神社に行けば良かったことに気が付いたのです。
曽根八幡宮 木村のお地蔵様 日向平の神社
日向平の神社まで行く途中に、木村のお地蔵様があります。せっかくなので、木村のお地蔵様を見てから日向平の神社に行きました。平生町でも最も高い場所にあると思われるその神社に着くとひっそりとしていました。境内は清掃したようですが、飾りつけはされていませんでした。神社の正式名も分かりません。ここ何年も管理されていないのでしょう。その周りには放棄された広大な田んぼが広がっています。
日向平の神社から見下ろした平生町の街並み
日向平の神社を降りると、陰平の集会所に行きました。ここは集会所ですが、阿曽権現社でもあるのです。立派な石鳥居があります。続いて、間違えたコースを立て直すため、再び大野八幡宮境内入口に戻りました。そして、曽根水場の山際にある金毘羅社に行きました。文政12年(1829)に建てられた立派な鳥居があります。
阿曽権現社 金毘羅社と石鳥居 百済部神社
続いて百済部神社に行きました。今の神社は、文島竜神社と百済部神社が合祀されたものとのことです。対岸を麻郷の戎ヶ下にした海に面しています。その戎ヶ下側の波間に石階段が付けられています。船が接岸できる神社です。続いて、古墳がある神花山の裾野の神花社に向かいました。
初詣のために通った、麻郷,平生町,上関町,柳井市のコース
一昨年と去年のお正月は、田布施町のすべての神社をお参りしました。今年は、平生町,上関町,そして柳井市の神社をお参りしようと思いました。しかし、途中でいろいろなハプニングがあって実現できませんでした。ですが、良かったハプニングもありました。平生町の黒羽根を巡っている時に、高校時代の同級生二人に偶然出会ったことです。45年ぶりでしょうか。びっくりしました。
今年のスタートは去年と同じ浮島神社
さて、スタートしたのは去年と同じ田布施町麻郷の浮島神社です。浮島神社にお参りしていると、近くの寮でポクポクと木魚をたたく音が聞こえてきました。行ってみると、数人の子供達がいました。寮をお世話する方が、お孫さんを連れておっ飯をあげていたのでしょう。軽く会釈をして、次の平生町人島の荒砂稲荷神社に向かいました。この神社は私が子供頃によくお参りした神社でした。秋祭りなどによく来ました。
人島の荒砂稲荷神社 玖珂島神社の石階段 玖珂島神社
続いて、平生町新市の玖珂島神社に行きました。人島,玖珂島,そして次に向かった野島も江戸時代初期まで島でした。江戸時代の干拓のため、今は陸地になっています。人島は干拓のため削られ、今は島の面影は何一つ残っていません。
野島神社前で獅子舞
今日のお目当ての一つが獅子舞です。人島に祖母が住んでいたのですが、毎年獅子舞がやってきていました。その獅子舞を50年ぶり位に見るため野島神社にやって来ました。少し遅れて着いたため、獅子舞はもう始まっていました。50年ぶり位に獅子に頭を噛んでもらいました。今年も健康に過ごすことができそうです。
獅子に頭を噛んでもらう 野島神社の石鳥居 野島神社
獅子に頭を噛んでもらうと、野島神社の石鳥居をくぐり、急な石階段を登りました。そして、野島神社本堂にお参りしました。そして、野島神社から平生の町並みを眺めました。私が平生保育園時代、この野島神社はお散歩コースの一つでした。野島神社から今日と同じように平生の町並みを眺めた記憶があります。南側は今より海がよく見えたように記憶しています。続いて、大野八幡宮に向かいました。
初詣のために通った、麻郷,平生町,上関町,柳井市のコース