ようやく、ほぼろの第1作目が完成しました。短いわらを使わざるを得ず、昔のような大きなほぼろを作ることができませんでした。出来上がったほぼろは、わらが厚めのバスケットのように仕上がりました。編み方がまだ不ぞろいなのですが、こんなものでしょう。次からはもう少し立派なほぼろができると思います。わら屑が付くといけないので、スカーフの四隅を手提げ紐に結びつけました。そして、そのスカーフを底に敷いて毛糸や端切れなどの編物用具を入れてみました。
ようやく完成したほぼろ(わらで作った手提げ籠)
最後に残っていた作業は、ほぼろ内側の底を編むことです。先日作った曲がり針の出番です。曲がり針を何度も繰り返し通して底を編みました。これで、底が抜けることが無くなります。続いて、ほぼろを手で下げることができるように手提げ紐を取り付けました。紐は長めにしたので、肩にかけてもいいですし、手に持ってもかまいません。これでほぼろが完成しました。
曲がり針を底に通す 蜘蛛の巣状に編む 手提げ紐を取り付け
完成したほぼろですが、畑で収穫した野菜や芋などはそのまま入れることができます。しかし、毛糸や布などはわら屑が付いてしまいます。それを避けるため、スカーフのような布をほぼろの底に敷くとよいでしょう。スカーフが外れないように、その四隅を手提げ紐に結び付けます。
なお、ほぼろの応用として猫小屋があります。猫が出入りできる穴を開けて編みます。そして、ひっくり返して伏せます。すると、猫小屋になります。その他の応用として、鍋,ボトル,コップ,瓶,樽などを包むことができます。
スカーフの端を紐に結ぶ 穴を開けて編めば猫小屋に
久しぶりのFM/AMラジオの修理です。元々このラジオは4回路2接点スイッチが悪いことが分かっていました。そのため分解修理しようと思っていましたが、そのうちコロナが収束したら秋葉原に行って問題のスイッチを購入しようと思っていました。通信販売も考えましたが、大きさなどが合いませんでした。そのため秋葉原のお店を順次回りながら探すしかないと思っていました。ところが、今年になってさらにコロナが蔓延して上京どころではなくなりました。そのため、リスキーですがスイッチを分解して修理することに転換しました。スイッチの故障を直せればGoodですが、治らなければコロナが収束してから上京してスイッチを購入するしかありません。
回路基板の〇部分のスイッチを分解修理
スイッチのレバー部はあらかじめ取り外していたため、今回はスイッチの基盤部を取り外すことにしました。これが意外に厄介で、スイッチに繋がる10本以上の電線をすべて外さなければ取り出せません。そのため、事前にどのコードがどの接点に繋がっているかメモしておきました。また、写真を撮っておきました。極細の線がたくさん這いまわっているため、最新の注意が必要です。
電線がばらけないように 片側の電線配置 編線で半田吸収
次に、スイッチに繋がるすべての電線を外しました。極細の銅編線で丁寧に半田を吸収すると、各電線が外れやすくなります。その後、ピンセットを使って1本ずつ電線をスイッチの接点から外しました。これでようやくスイッチを取り外すことができました。今後は、スイッチの接点を綺麗に磨いて元のように組み立てます。そして、元のように電線を半田付けします。これらの作業は、虫眼鏡がないとできないためとても目が疲れます。早く修理を完了させたいものです。
スイッチを取り外した箇所 取り外したスイッチの接点基板
ほぼろの製作と並行して、ほぼろを制作するために必要な治具を作っています。今回は、馬を二個作りました。意外にうまく作れたので、後日さらにもう数個作ろうと思います。この馬を複数使って講習できればと思っています。とは言え、初めて作る馬ですので試行錯誤しながらこの治具を作りました。今後のことを考えて、ほぼろ以外の例えば、俵用,ほぼろ用,猫のわら小屋用,ペットボトルカバー用,鍋覆い用などにも使える馬にしようと考えています。そのため、わら細工別に背板を交換できるように工夫してみました。
わら細工別に背板を交換できる馬、右端は参考にした馬
馬を作るにあたって、背板と脚部を作らなければなりません。まずは長さ50cmの脚を作りました。そして、この脚を斜め80度に傾いて取り付ける台形の支えを作りました。二個の脚部に背板を取り付けて一つの馬ができます。脚部が出来上がると背板を作りました。目的に応じて背板を交換できるように、ネジで取り外し可能にしました。
脚を支える台形の支柱 背板にするため加工 背板を支える小板
背板が出来上がると、背板と脚部を固定する小板を切り出しました。そして、背板を取り外しできるように小板には径9mmの穴を開けました。この穴に径8mmのネジを通して背板を脚部に取り付けます。あとは、必要な個数の駒を作り、背板に駒を取り付ける窪みを付ければ完成となります。なお、乾燥した枝がないと駒を作ることができません。空いた日に山に入って、駒になりそうな枯れ枝を探そうと思います。
組み立て前の脚と台形支柱 台形支柱,脚,小板を組み立て完
晩秋から暇をみては裏山の下草刈りを続けています。斜面ばかりの山ですのでなかなか大変です。主に笹ですので刃がすぐにダメになります。そのため、下草刈りの前には必ず刃を磨いています。一枚の刃ではもたないため数枚の刃を山に持ち込みます。切れ味が悪くなると、刃を裏返して使い、その刃の切れ味も悪くなると刃を取り替えます。ちなみに私が使うのは鉄の刃です。チップソーはあまり使いません。
山の斜面で踏ん張りながら下草(主に笹)を刈る
一年を通じて下草刈りしていますが、刈る時期は主に梅雨入り前と真冬です。7~9月は暑くてしかも蚊が襲ってくるため、尾根道や山道だけを少し刈ります。このところ体力が衰えたのか、真夏は熱中症になるのでないかと恐れています。実際、去年の夏に熱中症の症状が出ました。まず、頭が痛くなり、休憩していると吐き気がしました。1時間ほど木陰で静かに休んでいると体調が戻りました。今年から真夏は草刈りはしないことにしようかと思います。でも、草はどんどん伸びます。悩みどころです。
笹の間に山道を確保 広々と刈り取った尾根道
数年前まではすべての山の下草を刈り取りました。しかし、ボランティアが増えたり体力が衰えたりと、すべての山の下草刈りはできそうもありません。何かを諦めるしかありません。一時、シルバーに頼んで木の伐採をお願いしたこともありました。しかし、年金生活者には金額的に厳しいものがあります。何事も、できる範囲で,無理しないで,楽に,楽しく暮らすしかないと思うようになった今日この頃です。
山道を中心にして、左右に刈り広げる
皮が赤いジャガイモ(品種:アンデス)を収穫しました。元々このジャガイモは、初夏に成器塾の子供達に収穫してもらう予定でした。ジャガイモの品種の違いによる、形,色,煮崩れ,食味などの違いを教えるつもりでした。ところが、コロナのため成器塾は前半(4~8月)の活動が中止になってしまいました。そのため、ジャガイモは収穫されず畑に放置されたままでした。皮が赤いアンデスは、夏にできた芋から再び芽が出て、秋に芋ができる特徴があります。つまり、春に植えた親芋から夏に子芋ができ、さらに秋に孫芋でできるのです。そのため今回、どんな孫ジャガイモが収穫できるか楽しみでした。
フォークで土を掘り返しながらジャガイモを収穫
ちなみに、隣の畝に男爵とメークインも育てていました。男爵の畝には、ジャガイモの姿が全くありませんでした。、メークインの畝はジャガイモはありましたが小さく少な目でした。時間が無かったためメークインの収穫は後日としました。収穫したアンデスは小粒ばかりでした。夏に出た芽に付いた孫ジャガイモだからでしょう。たくさん収穫できたので、半部を食べて半分はこの春の種イモにしようかどうしようかと迷っています。
出てきたたくさんの孫ジャガイモ 小粒ばかりの赤いジャガイモ
ほぼろの製作も終盤です。コロナが収まったら、ほぼろ製作の講習会を開けたらと思っています。農家であれば、昔は俵やほぼろを作るための馬や曲がり針が普通にあったものです。今は誰に聞いても持っている人はまずいません。そのため、ほぼろ製作と並行して、ほぼろを作るための工具を自作しています。今回は、ほぼろの底を縫うために必要な曲がり針を四人分作りました。
ほぼろを編むために必要な曲がり針
曲がり針は畳針をU字型に曲げたような形をしています。オークションかどこかで売っていないか探しましたがありません。そのため、大きめの釘を鍛造加工して自作することにしました。釘の端をバーナーで赤熱してハンマーで強く打ち付けます。それを何度か繰り返して、釘の端を平らに延ばします。延ばした中心にドリルで穴を開けます。そして、ヤスリで綺麗に穴やその周辺を丸く磨きます。最後に、釘全体をハンマーで打ち付けてU字型に加工しました。久しぶりの鍛造や鉄工加工です。時間がかかりましたが、使えそうな曲がり針が完成しました。
釘を赤熱し鍛造加工 鍛造加工後穴あけ 釘を叩いて曲げる
曲がり針が使えるか、底を編み終わったほぼろを使って試してみました。すると、とても使い勝手が良いことが分かりました。昔は、農家なら誰でも俵やほぼろを作っていました。当然、その工具を作る大工や鍛冶屋がいたはずです。しかし、今は自分で作るしかありません。曲がり針ができたので、次はほぼろの製作に一番欠かせない馬を複数作ります。
曲がり針の先端をハンマーで曲げる 曲がり針の使い勝手を確認
先月種を採集したハゼの実の種まきをしました。種まき時期がさっぱり分からないため、二期に分けて種まきすることにしました。一期目は、真冬の今です。ハゼの種の性質が分からないため、あえて今にしました。品種にもよるのですが、麦は一度寒さに当たらないと春からの成長が思わしくありません。万が一ハゼにそのような性質があると、春に種をまいても芽が出なかったり成長が遅い恐れがあります。そのため、一期目としてあえて真冬の今種をまいてみました。
ハゼの種子を覆う皮を外す。右:ハゼの種子,左:ろうを含む皮
ちなみに二期目は春の4月か5月に種まきする予定です。なお、畑に種をまいても雑草に負ける可能性があります。そのため、大き目の植木鉢に種をまきました。そして、畑に穴を掘って埋めておきました。まずは芽が出ることが目標です。幸運にも芽が出たら、2年位育苗して畑脇に移植しようと計画しています。その後順調に育てば、その7年後頃には実ができるのではないかと思います。何と気の長い話だと思います。いずれは久留米市のように、ハゼろうが取れるほどに育てたいものです。
植木鉢を用意 四粒のハゼの実 畑に半ば埋める
相変わらず、ほぼろの制作に苦心しています。今回は、ほぼろの底を編み込む作業に入りました。ほぼろを制作する上で一番分からなかった部分です。最初、底を蜘蛛の巣のように綺麗に編み込む手法が分からなくて困りました。そこで、郷土館に展示してあるほぼろや俵の実物を何度も手に取って編み方を研究しました。その結果、少しずつ編み方が分かってきました。古老に教わらなくてもほぼろが制作できそうな気がしてきました。実際、数時間格闘してほぼろの底を編み込むことができました。初作のほぼろですが、なんとか底面を完成することができました。
ほぼろの底面を、苦心しながら編み込み中
底面を平らにするためには、底面部でわらを折らなければなりません。そのため、ほぼろ側面の底部をバケツに溜めた水に浸しました。1時間程度浸すとわらは水を吸って柔らかくなります。この柔らかくなった底部を折りながら紐で縛っていきました。白い紐では緩んでしまいますので、今度はシュロ縄で縛ってみました。わらを内側に折りながら強く縛ったため、なんとか底部全体を内側に折り曲げることができました。
水に浸して柔らかく 内側に折り曲げ縛る 底になるよう編み込む
ほぼろ側面を折りながら縛ると、ほぼろの底になりました。続いて、その底部が平らになるように縄で蜘蛛の巣のように編み込みました。最初、わらの細縄を使って編み込みました。編み込み方は、郷土館に展示してあるほぼろや俵と同じです。円の周辺から円の中心部に向かって編み込んでいきました。すると、思いのほかうまくできました。ところが、網目が広かったため、網の外に漏れるわらがありました。また、強くわら縄を引っ張ったため切れる箇所が出てきました。そのため、せっかく編んだ網すべてをハサミで切って取り外しました。そして、網目が細かくなるように、今度はジュート紐で編み直しました。
わら縄で編み込む ハサミで網を切る ジュート紐で編み直し
ジュート紐はとても安価です。今回使ったジュート紐は850mが700円位でした。ちなみにジュート紐とは、麻に似た植物の繊維を紐にしたものです。稲わらを縛るために多く使われています。植物性のため燃やすことができたり、土に埋めると腐って肥料にすることができます。再度、ほぼろの底部を蜘蛛の巣のように編み込むことができました。
次回は、ほぼろの内側を編み込もうと思います。内側は特殊な針を使いますので、まずはその針を作ることにしました。
畳針のような針で編み込む 蜘蛛の巣のように編み込み完了
12月の史跡巡り下見ウォーキングの続きです。本番ウォーキングで昼食をとる予定の柳井市役所付近の確認を終わると、古開作西公園(通称:ロケット公園)を通り過ぎて土穂石川に向かいました。土穂石川に着くと、橋本橋の袂にあるお地蔵様に見学しました。隣に新しい橋が架橋されているため、いずれその橋の袂に移動するのではないかと思います。橋本橋を渡ると、朝通った火伏地蔵に再びやって来ました。続いて、苗代池と呼ばれるため池に行きました。そして、このため池を守るように安置されたお地蔵様に行きました。
通称ロケット公園に到着、続いて土穂石川に向かう
ため池のお地蔵様を拝むと、道を少し戻って再び土穂石川に戻りました。戻る時、住宅の間をいくつも潜り抜けました。そして、変電所付近を通ってようやく土穂石川の土手に着きました。少し堤防沿いに歩いて、再び土穂石川に架かる橋を渡りました。渡っている時、突然強い風が吹いてS君の帽子が、土穂石川に飛んでいきました。帽子はどんどん川下に流れていきま、しだいに小さくなっていきました。
橋本橋袂のお地蔵様 橋本橋を渡る 苗代池袂のお地蔵様
遠く川下に去っていく帽子を、みんなでわいわい言いながら見つめました。帽子が見えなくなると、諦めて再び歩き始めました。次に、土穂石川が大きく左にターンする場所近くにある大師堂に着きました。ここで、立ったまましばらく休憩しました。
帽子が飛んでいった橋 土穂石川突き当りの大師堂
安永二年(1773年)に建立されたとの記載がある大師堂です。大師堂前の道は古開作が干拓される前に、干拓地の周りを通る道だったのではないかと思います。古地図によると、この大師堂あたりが当時の土穂石川河口だったはずです。ここから100m上流の川底に巨大な土穂石があります。
川名の由来の土穂石 シュシュで休憩 線路を渡って帰る
大師堂を過ぎた頃になると体が冷えてきました。そのため、線路を渡って喫茶シュシュに行き休憩することにしました。私は暖かいキャラメルコーヒーを飲んでケーキを食べました。30分位談笑したでしょうか。すっかり元気になり、足もかろやかになりました。シュシュから線路沿いに歩き、スタート地点に戻りました。下見ウォーキングお疲れさまでした。
柳井市古開作方面の史跡巡り下見ウォーキングのコース
ほぼろの制作に苦心しています。わら縄かシュロ縄で編み込めばよかったのですが、ロープで編み込んだためどうしても緩んでしまいます。今回はそのロープを手繰り寄せるように締める作業をしました。本来ならばしなくてもよい余分な作業です。次回ほぼろを編む時は、わら縄,シュロ縄,あるいはジュート紐を使おうと思います。白いロープはやや高価だったのに、わら細工には役に立ちませんでした。いい勉強になりました。
白いロープを強く手繰り寄せるようにして、ほぼろ側面を締める
白いロープを解いて、最初に戻ってわら縄で編もうと思いましたが止めました。せっかく編んだので、白いロープのままほぼろの制作を続行することにしました。白いロープを強く手繰り寄せながら隙間を無くしました。さらに、編んだロープとロープ間の長さが同じになるよう物差しで調整しました。次から次へと問題が出てくるほぼろの制作ですが、その都度戻ったり調整したり作り直しています。
ロープの緩みを取る 緩みを手繰り寄せる ロープ間の距離調整
ほぼろの側面を締めて緩みを取り終わると、ほぼろの底になる部分の調整をしました。このままでは、ほぼろの底の中心部が盛り上がります。その盛り上がりを無くすため、押切りでわらの先端部(穂先部分)を短くなるよう切断しました。切断し終わると、ほぼろの底になるよう穂先をまとめました。本来ならば、この穂先を切断する必要はありません。切断しなくてもよいようにほぼろ側面を編み込むべきでした。これまた、いい勉強になりました。次回は、いよいよほぼろ底部の編み込みに入ります。ほぼろ作りで一番難しい箇所です。
ほぼろ側面の穂先を短く切断 ほぼろ底部をまとめる
我家は一年を通じて長ネギをよく食べます。そのため、収穫した箇所が次々に空きます。今回は、その空いた箇所に補充のために長ネギの苗を植え付けました。真冬の今は根付きが良くありませんが、春までには茂ってきます。ところで、今は三種類のネギを栽培しています。長ネギ、タマネギ(早生と晩生)、そしてやぐらネギです。全種二つは種から育てていますが、後者はネギの先端に出る苗を植え付けて育てています。言わば種いらずのネギです。
食べ終わった長ネギの跡に長ネギの苗を植え付け
ところで、今回植え替えた長ネギは10月上旬に種まきしたものです。元々は、長ネギ苗がもう園芸店に入荷しないとのことでしたので仕方なく種まきしたものです。ところが、その後園芸店に長ネギが入荷しました。そのため、種まきした長ネギは余分となってしまいました。今回は、その長ネギ苗を補充として移植しました。
育った長ネギ苗 長ネギ苗を取る 補充として移植
このお正月の間、空いた時間に少しずつほぼろを制作しています。まずは、ほぼろの側面だけでも完成させることにしました。ところで、本来のほぼろはお皿のように大きく広がっています。ところが、古老からいただいたサンプルを見ると、お皿ではなくコップかバケツのように側面が立ち上がっています。大きさも小さめです。なぜバケツのように立ち上がっているのか、ほぼろを編みながら分かってきました。
それは、今の稲が短稈だからではないでしょうか。つまり、わら細工向きの長いわらが無くなり、短いわらばかりになったからです。コシヒカリのような長稈の品種は風などで容易に倒れてしまいます。ちなみに、コシヒカリは稲作農家の間では、コケヒカリと呼ばれるくらい倒れやすい品種でした。そのため、近年倒れない短稈の品種ばかり作られるようになりました。結果として、わら細工向きのわらが手に入らなくなったのです。
なんとか編み上げたほぼろの側面
ほぼろの側面を作りながら、いくつか間違いに気が付きました。一つは、わらを固定する紐です。本来ならば細く編んだわら紐を使います。わらで細紐を編む時間が無かったためロープを使いました。ところが、高いロープを使ったため、わらを固定する時に締まらないのです。その結果、ゆるゆるに組みあがりました。めんどうでもわらを編んで紐にして使うか、シュロ縄かジュート紐を使うと良かったのではないかと思います。
出来上がった側面 片側を止める 側面の出来上がり
二つ目の間違いはわらの折り方です。本来ならばわらを二つ折りにして積み重ねます。本来のほぼろと同じ大きさにしようと、わらの約1/3の所で折って使いました。すると、円にした時にほぼろの中心にわらが集まりすぎるのです。わらの長さに合わせた大きさのほぼろにすべきでした。ほぼろを作りながら、いろいろ気が付くことばかりです。
日向ぼっこしながらほぼろ作り 底にわらの先端を集める
午後晴れてきたため、田布施町の主要な神社を初詣しました。ちなみに、5年前に町内ほぼ全ての神社や祠77ヶ所を初詣しました。朝から晩まで、海から山まで走り回りました。一番疲れたのは、道のない山の上の方にあるお社です。登ったり降りたりの繰り返しで、ほとほと疲れました。今はそんな元気はないため、主要な神社だけを初詣しました。最初に氏子である高松八幡宮を初詣しました。そして、交通安全のお守りを購入しました。予想はしていましたが、コロナの関係でいつもより初詣する人が少ないように思いました。続いて麻里府の住吉神社に向かいました。ところが、中型バイクで初詣しようと思っていたらエンジンがかかりません。仕方なく原付バイクで出かけました。これも何かのご加護なのでしょうか、事故なく我家に戻ってくることができました。
去年よりも初詣の方が少ない高松八幡宮
麻里府に着くと、住吉神社が鎮座する山のふもとにバイクを止めました。そして、誰もいないお社に初詣しました。参道を登っていると、傾いている石の塀などが目につきました。倒壊しないか心配です。続いて、郷土館元館長のNさんの家に寄りました。ご在宅中で、暖かいコーヒーなどいただきながら談笑しました。ありがとうございました。温まった体で八尋石八幡宮を初詣しました。続いて、城南の石ノ口八幡宮に向かいました。
麻里府 住吉神社 西田布施 八尋石八幡宮 城南 石ノ口八幡宮
城南地区を南から北に横断して石ノ口八幡宮に着きました。やはり人が少なく、私以外は1組が初詣しているだけでした。続いて、小行司の多賀神社に行きました。小行司は田布施町の飛地です。そのため、途中光市を通り抜けないと行けません。去年はたい焼き屋さんがあったのですが、行くのが遅かったのか、畳んでいました。この神社は命の神様と言われ、戦時中に出征した息子の安全を祈る母親たちが毎日のように参拝していたそうです。
多賀神社から見た瀬戸内海 とても静かな多賀神社
多賀神社を初詣し終わると、山を下りて八幡八幡宮に向かいました。やはり誰もいない静かなお社が私を迎えてくれました。お賽銭を投げ入れてお祈りをしました。続いて八坂神社(祇園社)に向かいました。車の流れを見下ろしながら石段を登りました。振り返ると田布施街が見下ろせます。私が勤める郷土館も見えました。
大波野 八幡八幡宮 見晴らし良い八坂神社 静かな菅原神社
最後に、菅原神社に向かいました。私が幼児の頃、祖母がお祭りのたびに連れて行ってくれた神社です。かつては市とお祭りが一緒に開催され、道端に所狭しと物が置いてあり売っていました。牛が引く牛車のギリギリする車輪の音を今でも覚えています。お祭りは今でもありますが、もう牛車がありません。菅原神社の参拝を終えると我家に戻りました。寒空の中を走ったため、体が冷えてきってしまいました。すぐにこたつに入って体を温めました。さて、今年はどんな年になるでしょうか。良い年になればと願っています。
初詣をした、田布施町内の主要な神社
うかうかしていると、今年もあっと言う間に過ぎてしまいます。平均寿命まで私はあと15年しかありません。さらに言えば、健康寿命までたった6年しかありません。残り少ない年を何に使おうか、最近よく考えるようになりました。今年は、わら細工の一つであるほぼろ作りをマスターすることを目標にしています。まずは、今月中に一つ作り上げて、今年中に郷土館かどこかで講習会を開きたいと思っています。空いている日に、家ごもり又は郷土館ごもりしながら制作しています。しかし、亡き先輩たちが作り上げたほぼろには近づけません。
預かった馬を使ってほぼろの試作中
郷土館に保存してあるほぼろは、当時作られていた稲で作られています。当時の稲は茎が高いため大き目のほぼろを作ることができました。今の稲は短稈ばかりですので、当時と同じ大きさのほぼろや俵を再現できないことに気が付きました。このように、ほぼろを試作しながらいろいろ気が付くことばかりです。まずは一つ完成してみて、今の稲に合ったほぼろ作りにする必要があります。
稲束を次々に積み重ねる ほぼろの円周に近づく
このお正月、寝正月にしようと思っていました。ところが、早朝6時頃に目が覚めて庭を見ると、なんと雪が積もっているではありませんか。このお正月は、初雪に1cm位の初冠雪です。すぐに起きて、その雪でミニ雪だるまを作ってみました。
早朝で冷たいのか、雪がサラサラして握れません。すぐにパラパラと崩れてしまいます。そのため、手で強く握りしめて体温で固めました。満開の蝋梅の枝にぶら下がる去年の実から取り出した黒い種二つを目にしました。そして、口にはこの秋に収穫した小豆を、頭にはやはりこの秋に収穫した茶綿を使いました。万歳している腕は、枯れた竹の節つき枝を使ってみました。
今年もよろしく!初雪に初冠雪の雪で作ったミニ雪だるま
まさか、お正月に雪だるまを作ることになろうとは、おめでたいことです。室内に持ち込んで、雪だるま相手におとそをいただきました。思い起こせば、東京に住んでいる頃に大雪が降りました。その雪を山のように積み上げて、子供二人が入ることができるかまくらを作ったことがあります。また、山岳会に所属していた二十代、雪山登山をしたことがあります。その時に、雪のブロックを積み上げてイグルーを作ったこともありました。
初冠雪の畑 手を押し当て溶かす 雪だるま相手におとそ
寝正月にするつもりでしたが、寝るのに飽きてきました。そのため、午後は近所をぐるりとウォーキングしてみました。歩いたのは、高塔,旭,新川,庄山,田布施川,八海です。最初に旭地区を回ってみました。私が子供の頃に無かった麻郷団地への道を見たり、私が中学生の頃にあったお店(旭ママストア)の場所を見たりしました。また、旭地区にある荒神社を見たりしました。このお社は、歴史的な経緯から鳥越地区の方がお守りしています。旭地区を抜けると、田んぼの間を抜けるあぜ道を通って新川地区に行きました。
旭にある鳥越荒神社 あぜ道を新川へ 庄山橋からの石城山
新川地区に入ると、庄山を抜けて庄山橋に出ました。ここまで来ると、広い田んぼの向こうに石城山が見えます。そう言えば、子供の頃に庄山橋から川添橋の間でよく泳いだり水遊びしたことを覚えています。川の中に潜ると、イナなどの魚が泳いでいるのが見えました。庄山橋から川添橋まで歩いていると、左手に赤子山がよく見えます。川添橋に着くと、橋を渡り八海地区方面に向かって歩きました。
灸川合流地点の刑場跡付近 江戸時代の干拓の名残りの萱
川添橋を過ぎてしばらくすると、灸川との合流地点に着きました。その昔川幅が狭かった頃の名残が川の中に残っています。また、幕末期にここは刑場でした。奇兵隊の反乱兵がここで処刑されました。そのため、私が子供の頃はこの付近は息を止めて通り過ぎるように言われていました。刑場の名残の言い伝えなのだと思います。かつては萱が生い茂る堤防が続いており、夜ここを通ると怖かったことを覚えています。
高塔山の峠だった道 我家の離れた草地 我家の裏山から帰る
さらに田布施川を下ると、かつて架かっていた人島橋跡に着きました。私が子供の頃まで掛かっていた木造の橋でした。立派な欄干があったことをおぼろげながら覚えています。旧八海橋に着くと、高塔地区に入りました。国木田独歩が通った峠は今、削られて舗装道路に変貌しています。その昔は暗く寂しい峠だったことを覚えています。峠跡から少し歩いて我家の草地を通り抜けて、我家の裏山に登って我家に帰りました。
今年初ウォーキングした我家周辺