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声を届ける、受けとめる訓練を

2007年05月13日 | 雑記帳
 金曜日の校内研修会では、地元にいる元アナウンサーを招いた実技研修会を行った。本年度「声を届ける 受けとめる」を研究主題に盛り込んだので、その一つとして設けたものだ。
 6年生への特別授業後、職員対象に質疑応答や実技をしたのだが、その内容の一つにこんなものがあった。
 
 4,5人を後ろ向きに立たせ、少し離れたところからある1人を想定して呼びかけてみる。その声がねらった人に届くか。

 そういえば、もう三十年以上も前の学生の頃に、そうした授業があったことを思い出した。
 たぶんN先生の担当であり、竹内敏晴氏や野口三千三氏の主張と大きく関わっていたはずである。劣等生であった自分は少し距離をおいてみていたが、その意外性のある手法だけは妙に記憶にある。

 さて今回の実技指導であるが、実際にやってみて声をかけられた相手がはっきりとわかるのは至難のことである。講師も「別にあてることができなくてもいいですよ」という。
 では、結局何のためにこのワークを行うのか、これは結構興味深いことである。
 
 「声を届ける」ために大きな力を持つのが「視線」であることには間違いない。講師も初めにアイコンタクトを取り上げた。
 では視覚的に受けとめることのできない、後ろ向きの状態の人に声を届けるためには、どんな力が必要なのか…
 つまりは、その点に意識的になるということが一つあろう。
 発音であり、発声である。
 現に職員で試したときも、後ろ向きで聞いていると見事に差が際立つ例もあった。声が近くまで届くか、途中で落ちてしまうか、意外なほどはっきりわかった。
 
 複数の相手を後ろ向きにし、その中の一人を対象に声をかけるという行為には、身体の向きや姿勢よりも「意識」の問題が大きいことは確かだろう。
 ただ心で念じるばかりで何か届くような錯覚を持ってはならない。声の凝縮度というか密度というかそうしたことを高める訓練が必要なのではないか。
 結局それは、発音・発声の問題に結びつくし、そして身体の使い方に及んでくる。抽象的な言い回しであるが、声に「心をのせる」訓練ともいえよう。
 
 また受けとめる側の意識についても考えさせられた。
 背後からの呼びかけを感じとれるかどうかも意識的なことであり、その耳や身体も鍛えられるのではないか、ということである。鍛えられるべきということである。

 こういう場がいかに少なかったかを改めて思い知らされた。