すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

病んでいる部分から直撃を受ける

2007年05月20日 | 読書
『風穴をあける』(角川文庫)という谷川俊太郎のエッセイ集を読んでいたら、実に強烈な文章に出会った。
 十数年前に書かれた「教室を批評すること」と題された中の一節である。

 教師たちは現代日本の病んでいる部分の、もっとも見えやすいひとつの症候として存在しているように私には感じられる

 この感覚を額面通りに受け取りたくはないし、また「もっとも」という使い方に疑問を抱くのではあるが、そうした傾向にないかとチェックしてみることはまんざら無意味ではないだろう。

 「病んでいる部分」として、真っ先に思い浮かぶのは「金権体質」か。
 もちろん、教室で「世の中、金が全てだ」と叫ぶ教師はいないと思うが、そういう方向で教育全体が動いていないとは言い切れまい。
 お金が必要なものであることを教えるのは大切であるが、同時に「金で何でも買える」と言った人格を生み出した教育のあり方(実は社会のあり方)とは何だったかを、自分と実践と照らし合わせて考えてみることは大きな意味を持つように思う。

 もう一つ病んでいるといえば「人間関係」か。
 これはつまり目の前の子どもと人間関係を築けているのか、ということにつきる。
 子どもとどんな人間関係を築けばいいのか悩む教師も増えているように思う。逆に言えば、悩むことはごく当然で、対象そのものが難しくなってきている。複雑な背景を抱えてきている。
 
 そう考えてくると、日本の病んでいる部分の直撃をうけるのが教師、という言い方もできるのではないか。
 別に被害者意識をさらけ出すわけではないが、そういう自覚に立てば防御と作戦は必須である。国の上部であれこれ言っていることが、それに対して有効に働くかどうか…。
 少なくても現場の士気が下がるようなことでは困る、という見方は必要でないのか。

 とまた何だか広がってしまった。
 谷川氏が実は言いたいことは「教師の話し方」であったり、「学ぶための文体」であったりしたので、そちらの方を検討するべきであったか。
 これも病んでいる証拠といえるかもしれない。