すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ウェブ人間としての覚悟

2007年05月14日 | 読書
 この新書で二人が語っていることに対して、自分が抱いた感情は発見であり、納得であるが、同時に時代のうねりに対する不安も大きくなったような気がする。
 ついていけるか、ついていくことに意味があるのか、他にどんな生き方があるのか、様々な思いがわき上がってくるのを感じた。

 『ウェブ人間論』(梅田望夫・平野啓一郎 新潮新書)の前書きに、平野のこんな文章がある。

 日本におけるインターネット元年は、1995年と言われている。たった、十年ほど前のことである。しかし、私たちは最早、それ以前の生活を実感として想像し難くなっている。

 たしかに、たしかにと思った。インターネットが生活を変えるという言葉は盛んに言われていたが、様々な便利さを感じてきてはいたのだが、そして同時に問題点を感じ考えてきたつもりではあるが、「実感」としての変化はやはりここ十年に思いを馳せてみれば、重くのしかかってくる。
 以前の生活を想像しにくいほどの変化の中で生きているのだという、「覚悟」が必要なことを思い知らされる。

 教育を巡る問題にとっても重要な認識が示される。平野はこういう表現をした。

 これからはみんな、「生まれた時に放り込まれたコミュニティ」で交わされる言葉や価値観と同時に、ネットの世界のあらゆる場所の人々と交流する言葉や価値観に影響されながら、成長してゆくことになる。

 二人が最終章で「人間の魅力」について語り合うことと重なり合っていると言ってもよい。
 梅田の言葉である。

 人間の魅力を構成要素に分割して考えるなんておかしな話だけど、ネットで増幅できる要素と、ネットで増幅できない要素を、分けて考えることが大事だと思うんです。

 知識や情報をどう受けとめ、どう取り込んでいくか。
 その時に、自らの身体性をどうとらえて、生かそうとするのか。
 かなり注意深く自分の仕事や暮らしを見つめていく必要を感じるし、そうしないと、あっという間に飲み込まれる危険な時代の変わり目である。

 梅田は、「その魅力の総体が、幸せに暮らしていける条件になっていく」と規定している。しっかりとした位置づけを個の中に作り出している人の言葉だ。
 ネットの中に自分を作り出すことの是非はともかく、少なくともネットの中に自分を見失わないような努力が、今一番求められるのではないか。