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設計図を書き直す前に

2007年05月12日 | 読書
 『欲張りすぎるニッポンの教育』(講談社新書)は、先日取り上げた箇所だけではなく、読みどころいや考えどころ満載の本である。

 苅谷剛彦氏とジャーナリスト増田ユリヤ氏との対談を中心に構成されているが、総合や英語に始まってフィンランドの教育との比較などが、平易な表現で語られている。今まで数冊読んだ苅谷氏の本と比べても断然わかりやすいような気がした。
 そして文章を理解できた分だけ、自分がしてきたことや考えてきたことと照らし合わせることができたと思う。
 考え込んでしまったのは、大きく次の二つのことである。

 一つは、いわゆる「選択」ということ。
 ここ十年近く、その言葉は学校の教育活動にとって一つの大きなキーワードであったはずだ。
 教科においても、特別活動においても、その言葉を念頭においた実践が取り入られてきた。
 そうした方向に全面的に与したわけではないが、私もある面で支持してきた。
 しかし、どこかで何かひっかかっていたことも事実である。
 そしてこの本を読み、そのひっかかりはこれだなと思ったのが次の苅谷氏の文章だった。

 世の中全体でプログラム化が進んで、あたかも自分で選んだかのようにして育ってしまった子は、ちょっとでも依存できる対象が欠けたときには、不安でしようがなくなる。一見正解を教え込まれていないはずの子どもたちのほうが依存性が出てきてしまうとしたら皮肉な結果です。

 教育活動における「選択」が現実における力になり得るのか、重い問題である。


 もう一つは「問題解決における学校の役割」である。
 この場合の「問題」とは問題行動であり、非行であり、犯罪につながるものも含めてとらえている。
 苅谷氏の次の認識には、なるほどと思った。
 
 すごく極端な話をすると、もし十五歳で義務教育が終わって、四割ぐらいの子どもが社会に出ていれば、十五歳から二十歳までの青少年問題の多くは教育問題じゃなくなるんです。(中略)つまり、僕らは日本の教育が悪い悪いというけれど、その分、社会の問題を少なくしている可能性がある。

 上のような共通認識は、多くの人に理解され、受け入れられるのだろうか。
 もしそうなった場合、私たち教員の職業意識はどのように変化していくのか。そしてそれは案外面白い変革を生むきっかけになるかもしれないなあ、などとぼんやり考えている。

 ともあれ、この本で苅谷氏が一番言いたいことは次の点であろうし、そのアナウンスはぜひとも必要だと強く思う。

 教育のリフォームやリニューアルを大仰に語る前に、日本の教育の現状と、その可能性や限界を冷静に見つめ直すこと。設計図を書き直す前に、もう一度、リフォームの必要性や方向性について考え直すこと。そして、どうしてもリフォーム好きになってしまいそうな自分たちの体質を自覚し、とらえ直すこと。そういう落ち着きを取り戻すことが、今、強く求められている。