浅田次郎氏がエッセイ集『人は情熱がなければ生きていけない』(講談社文庫)で、ちょっとおもしろいことを書いている。
ふと思うのだが、近頃自己評価の甘い人間が多いのは、われわれの生活からこの大鏡がなくなったせいではあるまいか
ここで言う「大鏡」とは「大きな鏡」のことで、昔の銭湯にあったようなものを指している。
浅田氏は、男も女も紛れなくその鏡の前に立ち、自分の身体を晒すことで、そこに集った人々の違いを知り、自身の成長や変化を判断していったという。
そこで見た己の姿を確かめながら、人は暮らしてきたという。
ところが自宅の風呂が普及し、銭湯は少なくなり(健康ランドはあるけれど明らかに違う)、誰しもがその前にたつ大鏡の存在は消えていった。
氏は、家庭にある半身を映す鏡などはあくまでも「個人的フレーム」であると言い切る。
湯屋に行かなくなったわれわれは、本来社会的視野で判定すべき自己評価を、マイフレームの絶対的視野でのみ判断するほかはなくなった
ここで語られていることは「肉体」のことであるが、それは「それを器とする精神にも採用される」という一言は、ずしりと重い。
大鏡に象徴されるようなもの、場を、私たちはいくつ失くしてきただろう。
そこで培われてきたものは、生きていくうえで必要な評価能力であった気がするし、それは強さと呼んでいいものだった。
自己判断は明確な相対的結果であり、揺るがざる客観であった
ふと思うのだが、近頃自己評価の甘い人間が多いのは、われわれの生活からこの大鏡がなくなったせいではあるまいか
ここで言う「大鏡」とは「大きな鏡」のことで、昔の銭湯にあったようなものを指している。
浅田氏は、男も女も紛れなくその鏡の前に立ち、自分の身体を晒すことで、そこに集った人々の違いを知り、自身の成長や変化を判断していったという。
そこで見た己の姿を確かめながら、人は暮らしてきたという。
ところが自宅の風呂が普及し、銭湯は少なくなり(健康ランドはあるけれど明らかに違う)、誰しもがその前にたつ大鏡の存在は消えていった。
氏は、家庭にある半身を映す鏡などはあくまでも「個人的フレーム」であると言い切る。
湯屋に行かなくなったわれわれは、本来社会的視野で判定すべき自己評価を、マイフレームの絶対的視野でのみ判断するほかはなくなった
ここで語られていることは「肉体」のことであるが、それは「それを器とする精神にも採用される」という一言は、ずしりと重い。
大鏡に象徴されるようなもの、場を、私たちはいくつ失くしてきただろう。
そこで培われてきたものは、生きていくうえで必要な評価能力であった気がするし、それは強さと呼んでいいものだった。
自己判断は明確な相対的結果であり、揺るがざる客観であった