すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

自己評価を揺るがざる客観にする大鏡

2007年05月03日 | 読書
 浅田次郎氏がエッセイ集『人は情熱がなければ生きていけない』(講談社文庫)で、ちょっとおもしろいことを書いている。

 ふと思うのだが、近頃自己評価の甘い人間が多いのは、われわれの生活からこの大鏡がなくなったせいではあるまいか

 ここで言う「大鏡」とは「大きな鏡」のことで、昔の銭湯にあったようなものを指している。
 浅田氏は、男も女も紛れなくその鏡の前に立ち、自分の身体を晒すことで、そこに集った人々の違いを知り、自身の成長や変化を判断していったという。
 そこで見た己の姿を確かめながら、人は暮らしてきたという。

 ところが自宅の風呂が普及し、銭湯は少なくなり(健康ランドはあるけれど明らかに違う)、誰しもがその前にたつ大鏡の存在は消えていった。
 氏は、家庭にある半身を映す鏡などはあくまでも「個人的フレーム」であると言い切る。

 湯屋に行かなくなったわれわれは、本来社会的視野で判定すべき自己評価を、マイフレームの絶対的視野でのみ判断するほかはなくなった

 ここで語られていることは「肉体」のことであるが、それは「それを器とする精神にも採用される」という一言は、ずしりと重い。

 大鏡に象徴されるようなもの、場を、私たちはいくつ失くしてきただろう。
 そこで培われてきたものは、生きていくうえで必要な評価能力であった気がするし、それは強さと呼んでいいものだった。

  自己判断は明確な相対的結果であり、揺るがざる客観であった