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内なる「座布団一枚」の空間

2007年07月25日 | 雑記帳
 先日、落語を聴きに出かけたときのことである。
 「二人会」と銘打ち、名の知れている若手落語家と俳優の高座があった。俳優の落語もなかなかであったが、改めて本職の落語家の見事さを感じた。滑舌、間のとり方など微妙な点でやはり違うなという印象を持った。
 もちろん俳優も一流であり、いくつもの舞台で賞にも輝いている人である。数年前に見たその一人芝居の見事さは今でも忘れられない。
 それでもなおかつ、高座という場で違いが出るのは何故だろうと考えてしまった。

 高座のあと、その二人で短い対談があった。
 俳優が、落語との出会いなどを話したあとに、落語家をこう持ち上げた。

 「座布団一枚の空間で表現する」
 
 言われてみればしごくもっともなことだが、改めて「制限された空間での表現」について考えざるをえない。
 俳優には自由自在に動く足がある。それによる身体表現の幅は落語とは比べ物にならない。従ってそれを生かさなければならない。それに比べれば落語家は口一つ、表情の変化とあとは上半身の動きぐらいか…
 つまり、表現手段をいくつも持つということは、その一つ一つのレベル向上を図るのは結構難しいことではないか…などとそんな考えが浮かぶ。

 教育の場に置き換えてみる。
 授業における子どもに対する働きかけの場面だけとっても、教師のことば(説明、発問など)、動き、板書、カード、IT機器等々いくつもに分かれる。
むろん、総体的にレベルの高さを持つ教員はいる。連動して上達するという方が多いかもしれない。
 しかしあえて厳密に、手段が多くなればなるほど一つの重みが薄れ、表す側の意識がそこに入りにくくなるのではないか、と考えてみる。

 集会のたびに何か「モノ」や「カード」を持ち込んで話をしている。子どもたちの目をひきつけようとしているが、実はそうした小道具に頼っているのではないかとずいぶん前から少し迷いが生じていた。
 モノを準備することで安心してしまうような自分もいる。話す厳しさに欠けてきているのではという思いである。

 内なる「座布団一枚」の空間を設定してみることも必要なのかもしれない。