すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

教育の仕事に自覚的であるということ

2007年07月26日 | 雑記帳
 モラロジーの教育者研究会に参加して、例年のように野口芳宏先生のお話を聴きながら、頭に思い浮かんだことがあった。

 堀裕嗣氏がその著書『学級経営力を高める』(明治図書)で野口芳宏先生の授業実践追試について記していることである。
 堀氏は、次の三つに区分している。
 一つは微細技術(例えば、小刻みなノート作業、二者択一での事前予想など)
 次は、授業全体がシステム化されているもの(詩『うとてとこ』など)
 そして、『論破の授業』や『なぜ』発問に代表される実践である。
 初めの二つについて追試は有効であるが、最後については「警戒して使わなければならない」という。それは一種の「芸」であり、野口先生のキャラクターに依る部分がかなり大きいとしている。
 国語科の実践について述べたものであろうが、会で聞いた講話『人生のバトンパス』の後半部にあった天皇制の問題や平等意識の問題についても、最後の例と似たようなことが言えるのではないかと思った。

 確かに、野口先生の主張に対して思想的な共感を覚える部分はある。
 が、しかしそこで耳に入った言葉をその通りに学校現場で主張することが、私たちの年代にできるものなのか。少なくても私には自信がないし、慎重にならざるを得ない。
 野口先生には確固とした信念があり、それを支える知識も歴史的認識も豊富だ。
 それに比べて…自分が育った時代つまり価値観が大きく揺らいだ次代に刷り込まれたものは大きい。それゆえ、教えを受けて自分が発しようとする言葉を自分でもう一度聴いてみたとき、様々な反論に対して正対できるほどの力を持ちえていないことがわかるのだ。

 もちろん、そこに立ち止まっていては何の進展もない。
 現況をみたとき、再興すべき学校教育があり、それが叶えば大きな力となるだろう。そういう願いを持ってできることを見極めながら進めていくしかない。
 そのためにいかに日常の仕事に自覚的でありえるか、を思い知らされる。つまり「教育の目的」と現状をつなぎ計画的意図的な営みに結び付けられるか、ということだ。それを抜きに、仕事の処理能力など上げてみたところでいったい何が得られるというのか。
 その意味で課題を突きつけられたような気もする研修会だった。

 野口先生をお送りする車中で教師論の話になったとき、先生はあっさりと言い切られた。

「教師はねえ、影響者なんだよ」

 わが身を振り返させられる一言だった。