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偶有性の世界を泳ぎきるために

2007年07月19日 | 読書
 ネット時代を牽引する一人であろう梅田望夫と今を時めく脳科学者茂木健一郎の対談本『フューチャリスト宣言』(ちくま新書)を読んだ。

 新書でありながら少し難解な用語もあったが、十分に刺激的な内容だった。
 まず、インターネットをどうとらえていくか、十二分に有効性を認めその価値を享受しながらも私自身何回か批判めいた言辞をしたことがある。いわば迷いといってもよいその考えを、こんなふうにあっさり切り捨てた。

 たしかにいま、ネットにはいろいろな危険性がある、子どもを遠ざけたほうがいいとか、いろいろ議論がありますが、そういうなかで考えないといけないのは、ネットというのは鉄道や自動車や飛行機ができたときとすごく似ているということです。(略)不幸で悲しい事件も実際に起こるのだけれど、それを乗り越えていかなければならない。いまはまだ犠牲者が出ている試行錯誤の時期だと思います。新しい道具で、しかも強力な道具だから。それがあることを前提にリテラシーを身につけてサバイブしていかなければならないと思います。(梅田)

 「ネットという道具」に対する姿勢がはっきりしている二人だからこそ、力強く感じる言辞は他にも多い。

 公共性と利他性こそが、インターネットの特質でなければならないと思います。(茂木)

 グーグルの便利さばかり目についている自分であるが、その思想については、二人の論じ合う姿によって納得できたような気がする。
 といってももう二人の目は将来を見据えており、今の若い世代への期待がところどころに顔を出している。
 同時に「教育」について語る部分も興味深かった。

 「世の中」はそもそもグーグル的な偶有性にみちているものです。だからたとえば日本の学校教育のような、与えられた教科書をひと通り覚えれば世の中にでてだいじょうぶという考えではうまくいかない。(茂木)

 結局教育ってポジティブなものを与えるということ以外に何の意味もない。(梅田)
 ポジティプなビジョンを与えること以外に教育はない。(茂木)
 
 ネットがもたらす偶有性の世の中に身をさらして生きていくためには、何を身につけさせるべきかが問われているし、それは従来の価値観がある面では通用しなくなっている現実があることと重なっているのだ。では、学校教育はどうする…ここは冷静に、状況を見つめなければならない。
 浮き足立ってはいけない。
 母校である慶応義塾の中学2年生に、特別授業として語った内容の終末に梅田は、「普通部の頃を思い出して二つ後悔すること」として、次のことを挙げている。

 身体をもっと鍛えておけばよかった
 あんまり興味がない科目でも、授業中だけでいいから、もうちょっと真剣にやっていればよかった
 
 一日の大半をネットとともに暮らす梅田にしても、こうである。
 ネットともにあるフューチャーは疑いようもないし、輝くようにありたいと思う。
 しかし、それは道具でしかない。(もっとも「言語」と同等くらい強力なものであるが)

 使いこなす人間のリアルな感覚を鍛えていくことこそ、基礎というべきである。