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「道徳の教科化」はともあれ

2007年11月01日 | 雑記帳
 教育再生会議が提言した「道徳の教科化」というのは、実に面白い問題である。
 そんな傍観者的な言い方はよくないのかもしれないが、いろいろな視点を導き出せる、自分の考えを刺激してくれるという意味合いである。
 道徳とは何か、教科とは何か、そしてこの提言に対する様々な論者の意見の違いをいったいどう見るか…

 自分が目を通した範囲でみると、考えとしては四つぐらいに分かれているような印象を持つ。
 積極的賛成、限定つき賛成、趣旨はわかるが反対、絶対に反対というように。
 絶対に反対派は、そもそも特設道徳に反対している人が多い。国家によって道徳徳目を策定していくことがおかしいと言っている。また、道徳推進派の中にも「なぜ教科なのか」という点に深い疑念を持つ方は強く反対している。
 趣旨はわかるが反対、というのは教科化よりも指導法を考えよという人になる。つまり道徳推進に変わりはない。限定つき賛成は、提言内容を巡って問題化している教科書や評価の問題にある程度条件を出しているが、学校における道徳推進のためにいい「きっかけ」となると考えている。
 積極的賛成派は、教材、評価まで踏み込んでどんどんやっていくべきだという考えだ。ただしその内容や方法についてはどういうライン引きをするのか意見は様々だ。知識なのか行動なのか、何を教え、どう評価していくのかということでは違いを見せている。

 結局、特設道徳反対論者を除けば、道徳の充実を図らねばならないという点は一致しているのだが、そのアプローチには大きな隔たりがある。どのあたりに集約されて現場に下ろされてくるのか、またその下ろし方は歪まないのか、縦割り的な教育行政の中で危惧されることは多い。

 先日、勤めている市内で東北地区の道徳研究大会があった。参加者が少なかったという話を聞いた。
 道徳に関心を持つ人が少ないからではないだろう。教科の研究会でもこの頃は人が集まりにくくなっている。いや参加しにくくなっているのが事実だし、そうした刺激をうける機会が減っているのだから教員のモチベーションも下がっているのが現状ではないのか。

 道徳の充実には異論がない。充実のさせ方が問題なのだ。しかし研究会にも満足に参加できない実態が進むなかで疲弊していく教員が多くなっていく…そんな現状では、形ばかりが充実する道徳が進んでいかないだろうか。
 総花的な改革案では失敗は目に見えている。

 抜本的な改革が必要なことはまだあるのではないか。
 子ども同様学校という組織にも、「規則の遵守」や「公共心」だけでなく、「自立」や「寛容」という価値が尊重されて根付くことが大切だと思う。