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桜と絵本と豆乳と

祝100巻「美味」に思いをよせて

2007年11月07日 | 読書
 『美味しんぼ』のコミック本がついに100巻となった。
 もう20年以上も続いているはずだ。
 自宅の建替えのときにそれまでのコミックを処理したので、今は80巻台からしか手元にないが、発刊されれば即購入する一つとなっている。
 さらにコンビニで再編本なども買ったりする。

 さて、振り返ってみれば、出会いである第一巻の『豆腐と水』は実におもしろかった。

 二十代だったしそうした観点で食べ物を考えたことがなかった。そして社会的にもいわばグルメブームの先駆けとして名を残したといってもよいのではないか。
 現在は、100巻が『日本全県味巡り 青森編』という名が記すように、地方の食文化紹介マンガのような趣だが、それはそれで意味のあることだろう。漫画という手法も独特のよさも感じる。
 ただこれほど続くと、登場人物なり、味の表現なりはパターン化が免れず、その面では食傷気味ということも否めない。キャラクターにも変化が生じている。

 それはさておき、原作者の雁屋哲氏が書いたエッセイ等を数冊読んだことがあるが、やはりそのうんちくはなかなか面白い。「海原雄山」ファンを自認する私にはセリフの背景として興味深いというべきか。ちなみにコミック100号では雄山に「美しい国とは何か」について語らせている。

 その雁屋氏は唯一最大の趣味とも言うべき肝心の「食」についてどう考えているか。金額に無頓着に美味しいものを食べてきた結果の一言は、ここにある。(『美味しんぼ塾』小学館)

 美味しいまずいにその金額は関係ない(…中略…)大事なのは、正しい材料、料理人の正しい心構え、それを見極めること、それだけです。
 
 財政的な破滅状況に陥るほどの修業の末に得た雁屋氏の結論は、想像するより密度が濃いだろう。私も食への興味は高いと思うが、それほどの情熱は傾けられない。せめて身近な状況だけには細かい目と舌を向けたいと思う(それゆえ「身近」には嫌われるかもしれないが)。

 最後に『美味しんぼ』という造語を考えてみる。
 「おいしい」と「坊」の組み合わせであり、正確には「おいしんぼう」つまり「おいしいものには目がない人」または「おいしいものを求める人」などというところか。
 それを「ぼ」で止めたのには語感のよさだとは思うが、あえて意味づけてみれば「美味しん募(広くつのる)」や「美味しん簿(帳面・記録)」などもあてはまるかな。
 いや、それより「美味しん慕(思いを寄せる)」が素敵だな、などと遊んでみた。

 マンネリであっても続いてほしい漫画である。