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音読指導の可能性は

2007年11月29日 | 雑記帳
 青木幹勇氏の『音読指導入門』(明治図書)には、こんな一節がある。

 理解以前に音読がある。理解以前の音読にも学習すべき内容はたっぷりある。極端な場合理解は空っぽでも、その音読には十分価値がある。

 平成元年版の学習指導要領では、まだ音読・朗読が強調されており、同年に発刊されたこの本にはやはりそれだけの重みがあるように思う。

 その時分から巻き起こった「音声言語指導の充実」の方向が「話す・聞く」に中心を置いた形となり、その関連もあったのか音読・朗読という言葉が指導要領から姿を消してしまった。
 しかし、巻き起こった「日本語ブーム」「音読ブーム」により現場ではまた音読に陽があたっていると言えよう。
 そうではなくても国語教師であれば、音読を疎かにした指導などあり得ないと考えている人が大半で、それが不易であることを青木氏の言葉が十分に証明してくれるだろう。

 何で今さらこんなことを書き始めたか、というと校内での音読の研究授業がきっかけである。
 「音読の授業」を考えた場合には、やはり正しい音読の要素、「声・発音・速度・リズム」といった基礎を徹底的に行うことが、まず求められるだろう。
 朗読や表現読みを最初から目指すという考えもあるが、それはポピュラーとは言えない。(上級者であれば可能であり、その例も知っているが)
 青木先生と同様野口芳宏先生も、「教室音読」という言葉で基礎技能を中心とした指導のあり方を強調されていると思う。

 では、そこから一歩踏み出した音読指導はどうあればいいか。いわば他に聞かせる「朗読」を目指すための指導と言ってもいい。
 通年で音読、暗唱などを取り上げてきた本校にとっては今後の課題と言えるわけだ。

 授業を見ながら、そして見終わって考えたことは二つある。

 一つは「音読を工夫させる技能を、教師(側)が十分わかっているのか」という点である。
 もう一つは「子どもが自ら上手になろうと仕向けるためには、何が必要か」という点である。

 前者では、やや専門的な用語や実技研修が必要かもしれない。
 後者はどう考えたらいいだろう。
 手元にあった、ずいぶん前の『授業づくりネットワーク』誌(学事出版)を広げてみた。
 95年の11月号「特集 音読・群読~声を出すって楽しい」である。
 伊藤経子氏が「グループ音読」と題して、次のようなことを書いている。

「いい音読のできる人になりたい」という欲求を持って、練習を続ける。欲求→練習→成就→再び欲求というサイクルが、生きて活動するような子どもに育てるのです 

 その一つとして「グループ音読」を取り上げている。
 
 今日の授業もグループごとの音読であり、その意味で十分に検討に値し、可能性をもった活動であることが見えてくる。