すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

子どもの目で語る過程

2008年12月08日 | 読書
 出版社のPR誌で読んだ小文が面白かったので(ジャパネットについて書いたものだった)、長嶋有という作家の文庫本を一つ読んでみた。

 『猛スピードで母は』(文春文庫)
 小説読みではないので知らなかったが、芥川賞作家であるようだ。

 短編が2つの薄い文庫本は、休日の風呂に持ち込むのには非常に良かった。
二編の共通点は、いずれも「子どもの目」を通して書かれている部分が圧倒的に多いことだ。
 そして自分が、子どもを主人公や話者として設定する作品を結構読んでいることに今さらながら気づく。
 といっても重松清など一部の作家に限られているなあ。

 「子どもの目」で語ることの意味はどういうことだろうか、とふと考えた。
小説好きであれば、そんなことはとうに思いを巡らしたのだろうが、自分にはなかった。

 子どもの目を通して描かれる中心は、紛れもなく大人の姿である。
 大人の何気ない言葉や仕草が大きな意味を持って圧し掛かってくるような表現が結構多い。
 それは結局、作者がそうした言葉や仕草の意味を創造できたことになるわけだが、それは子どもの感性と照らし合わせる過程を潜り抜けたということか。
 小説の中で語る子どもの多くは、成熟しているし、饒舌である(自分の中でということ)。
 実際にそんな子がたくさん存在するとは思えないが、作家たちは子ども時代にその目(これは芽といった方がいいか)を身につけてきていて、それを少し難しい言葉で表現しているということなのだろうな。

 観察される大人として女性が多いと思うのは、思い込みだろうか。
 このあたりは、もう少し読み込まないとわからない。