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桜と絵本と豆乳と

権力を感じさせるとき

2008年12月11日 | 読書
 ノーベル賞を受賞した益川氏のスピーチの話題が、ずいぶんとテレビで報道されていた。
 英語でのスピーチという形を崩すことがどれほどの重みなのか判断はつかない。
 しかし、益川氏が自身の決断の影響力を慮って「論文の英語はすべて読めます」と話されたことは大事なことだと思った。
 いわば日本の知性の一人であろう方が、英語を使えないわけではないことはきちんと知らしめておかなければいけない。

 さて、英語の小学校導入が秒読み段階である。
 総合が導入されたときから予想はされていたし、当時は自分自身も積極的な構えでいたのだが、この頃は少し迷いが生じてきた。それがどこから来ているのか明確にたどれないのだが…。

 先日、会議へ行くためにのった電車のなかで、
『知に働けば、蔵が建つ』(内田樹著 文春文庫)を読みきった。
 理解できない箇所もあったが、たくさんの刺激をうけた。
 2003,4年頃のブログ記事がもとになっているようだが、「今」を理解するために私にとってはとても貴重な一冊といえる。

 外国語教育について書かれた項目もある。
 ここでの「読ませる教育」と「聴かせる教育」との違いは実に興味深い。
 確かに、コミュニケーションの場で何度も繰りかえすことのできる「読む」という行為と、それが簡単には許されないだろう「聴く」では、そこに心理的ないや構造的な問題が生ずる度合が全然違う。

 オーラル・コミュニケーションの権力性

 ここで「植民地主義的発想」という言葉を持ち出すとは、さすがの内田教授である。
 英語教育の推進がこのあとどう展開するか先行きの見えない部分もあるが、次の部分はううんと考えさせられるし、見失ってはいけないことだと思う。

 「英語話者の知的威信が構造的に担保され、ノン・ネイティブが常に劣等感を覚えるような教育システム」を採用していることの政治的な意味