すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

偏愛に胸が打たれる時

2010年02月09日 | 読書
 もはやタレント教授と呼んでいいのだろうか。かの齋藤孝明治大教授が爆笑レッドカーペットの審査員?の席に座っていた。

 「この人と話したことあるよ」と言うと、娘が妙に羨ましがる。
 といっても、講演後のサイン会で三つほど質問をしてみて、実にフレンドリーに応えていただいたという記憶なのだが…。

 『くんずほぐれつ』(文春文庫)を再読した。
 著者の名が今のように世間に広まる前の若々しい文章だ。発刊された当時に読んでいて、このブログ内にも簡単な引用とメモを残していた。

 改めて読んで、やはり惹かれる箇所の多い著書だ。
 「そいつつずらす」「換骨奪胎」「闇の共有」「身振りの技化」…その後に書かれた多くの著書にも何度も登場する。
 しかし、あえて一つ選ぶとすれば、やはり再び「偏愛」という言葉になる。著者の本の中では、非常に使用頻度の高い言葉だ。
 「かたよった愛」という辞書的な意味とは少しニュアンスの違いを感じるが、とにかく自分自身の興味を突き詰めてみろ!という熱い意志を感じさせる。

 教師が多くのものを偏愛し、幅広い世界を持っているとき、魅力的な人間になる。
 
 なるほどと思う。
 私の知る魅力的な教師の多くは、確かに偏愛しているものを持っていると実感することがある。
 研究会やネットを通して知り合いになった方々の多彩な興味の示し方に驚かされることも少なくない。

 偏愛とは、学びを突き動かすエネルギーのようなものであることに気づく。とすれば、学校に充満させたい要素だなあとつくづく感じる。
 次の箇所も引用しておこう。

 私たちは、なによりも、対象に関わる先行者の関係様式、構えを学ぶのだ。子どもの偏愛に教師が胸打たれるときは、子どもが教師にとっての先行者になる。